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惠泉塾前史~価値ある人生の秘訣

(ヨハネによる福音書12:24~28)

 

1.   死なない果実

冬枯れの庭の桜桃の木の枝に、ちらほら小さく黒ずんで固まった果実がついています。美味しい季節に人に摘まれず、鳥に啄まれず、風に振り落とされず、枝にしがみついて残った果実です。喜びを与えず死んで干からびた実など、もはや誰も見向きもしません。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、ただ一粒のままである。自分の命を愛する者はそれを失う。」とイエスが言われた通り、冬の枝にぶら下がる実は一代限りの命でした。

 

2.   死んだ果実

余市の南の畑の隅に桜桃の密生した小さな林があります。中に2本、幹の太い立派な木がありますから、初めはこれだけだったのでしょう百姓が売るために実を摘まなかったので、鳥が食べ、種が落ちて、周囲の土から次々芽が吹き、林になってしまいました。小鳥たちは桜桃の実が大好物。初夏になるとこの林に集まってかしましくさえずります。「一粒の麦が、もし地に落ちて死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。この世で自分の命を愛さず、むしろ憎む者は、かえって命を失わず、保護されて、永遠の命を持つにいたる。」とイエスが言われるのを聞いて、私はこの桜桃の林を想いうかべるのです。

 

3.   実を結ぶ枝

神は全地の植物を創造された後、人間の食物には種子植物を、鳥や獣や虫には青草を与える、と言われました。神が定めた植物の存在意義は、自らを命ある全ての生き物の前に投じて、その食物となるところにあるのです。イエスはまた言われました、「私はまことの葡萄の木、私の父は農夫である。私につながっている枝で実を結ばないものは、父が全てこれを取り除き、実を結ぶものはもっと豊かに実らせる為に繰り返し刈り込み、余分な枝を整理なさる。」と。根から流れて来る養分を、実をつけるためには用いないで、自分が幹に成り代ろうと自分を太らせることばかりに費やす葡萄の枝は、農夫にとっては無価値です。幹はこれ(イエス)と農夫が既に定めて縄で縛って固定してあります。それ以外は実をつける為に自分が痩せ細ることに甘んじなければなりません。大粒の房をたわわに実らせてこそ葡萄の枝の存在意義があるのです。イエスはご自分で農夫(神)の前に生きる葡萄の枝(人間)の理想の姿を体現して見せて下さいました。「父よ、この時から私をお救いください。」と叫びつつ、「しかし、私はこの時の為に来たのです。」と辛い任務を引き受けるこの≪十字架≫の任務に殉ずる理想の人の姿が極まっています。