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惠泉塾前史~無者キリスト

(ヨハネによる福音書5:19~30)

 

1.   見た通りに行う

当時のユダヤでは、息子は父親の仕事の後を継ぎ、父親の生き方や仕事のやり方をそのまま真似て一人前になっていったものでした。それだけに父親は自分の秘密の工夫も何もかも息子に見せて息子を一人前に仕立て上げるのに骨身惜しまず尽くしたのです。そのように、イエスは神を「お父様」とお呼びし、「お父様は私を愛しておられるので、ご自身の手の内を包み隠さず見せて下さり、私はお父様の教えて下さった通りに行っているにすぎない」と告白なさいました。

イエスのみ業の中にはベテスダの池に38年間横たわっていた病人を癒すような誰にでも理解しやすい神の愛の行為もありますが、神の子が罪人として十字架にかかる、という、当時の人々の神概念の常識を覆すような、理解を超えた行為もありました。

イエスはそれらを何ひとつ拒まず、「はい、お父様」と答えて実行して行かれました。

 

2.   聞いた通りに裁く

神は私達人間がイエスを神同様に敬うように、と求めておられます。イエスを敬わなければ、イエスを通して語られる神のことばが人々の魂に受け入れられないからです。それで神は人間の運命に直接に関わる“永遠の命”を与える権威と“最後の審判”を下す権威とをイエスに委ねられました。

しかし、イエスはそこでもご自分の判断を退け、「私をこの世に派遣されたお父様の御心を行おう」として、お父様に正しい判断を仰がれましたから、イエスの裁きには誤りがありません。断言するイエスのことばには、その一つひとつに神の印が押されているのです。

 

3.   神の自由意思

神は法則ではありません。生きた人格をお持ちの、自立した存在でいらっしゃいます。だから、「私は恵もうとするものを恵み、憐れもうとする者を憐れむ」また「自分が与えたいと思う者に永遠の命を与える」と言われます。真面目な長男を尻目に財産を蕩尽した弟に後継者の印の指輪を与えた父親や、兄のエサウではなく狡賢く我の強いヤコブをその誕生の時既に選んだ神のことを考えると、客観的価値基準をもとに私達が正義か否か判断することを断念し、神の決定を正義として受け入れるよう求められていると気づかされます。それが神を受け入れ信頼する者の採るべき態度なのだとイエスは言うのです。