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惠泉塾前史~真の教育者の仕事

内村鑑三が明治27年7月、箱根で行われた基督京都第六夏期学校で二夜にわたって語った講演は聴衆に大変な感銘を与え、後に「後世への最大遺物」と題されて出版され、多くの青年に読み継がれて大なる感化を与え続けている。時に内村、33歳であった。その若い事に私は驚く。

内村は若き日に頼山陽の詩に鼓舞されて「千載青史に列するを得る位の人間になりたい」と願ったが、一般基督教会から「クリスチャンは功名を欲することは為すべからず」と批判された。しかし大恩ある母校に卒業生が愛をこめて植樹し遺すように、私に50年の命をくれたこの美しい地球に何か遺して死にたい、との思いは清い欲ではないか。20歳のハーシェルの言、「我が死ぬ時には、我々が生まれた時より、世の中を少しなりとも良くして行こうではないか」は実に美しい希望ではないか。内村はそう訴えてから、後世へ残す物を列述する。即ち、“金”(スチーブン・ジラードの例)、次に“事業”(箱根近在の百姓の兄弟の例、デビッド・リビングストンの例)、更には“思想”(聖書記者の例、頼山陽の例、ジョン・ロック、トマス・グレイ、ジョン・バンヤンの例)。

しかし、3つ共に天才が必要で、誰にでも出来るものでもないし、用い方を誤ると弊害を伴う欠陥がある。後世への最大遺物は①誰にでも遺すことができて、②利益ばかりあって害のないもの、でなければならぬ。それは、

―この世の中が神の支配する、希望の世の中、歓喜の世の中であると信じ、自分の生涯の実践を通してそのことを証明し遺す―

生き方である、それが“勇ましい高尚なる生涯”であり後世への最大遺物である、と内村は結論づけた。「今日の欠乏はLifeの欠乏であります。」事業を興し施設・建物を遺してもらっても「私自身を働かせる原動力をもらわない」なら何にもならない。「もしあの人にもアアいう事ができたならば、私にもできないことはない。」と人を奮起させる力、Life、を与えうる人が大切だ。私は内村のこの言に、人生の真の教師の姿を思い浮かべる。教師は知識を移植する人ではなく、真理に興味を抱かせ、真理探究の情熱を奮い立たせる人のことではないか。そうした真の教師に出会えた人は幸いである。