ニュース&トピックス

5月 世界中探しても見つからないもの ~65歳の水谷幹夫先生のメッセージ~

「世の中にあんな人いないよ、馬鹿みたいに尽くしてくれる。自分みたいな者でも好きになってくれるのかな?

」と言っていた人が、そのうちにだんだんその人を好きになり、影響を受けて良い関係ができ、その人に何かしてあげたいと思うようになる。  私は10年かけて隣人とそういう付き合い方をしてきた。すると、敵対する相手が愛し合う仲間になる。我慢ではない。その人への興味関心が尽きず、注目せざるを得ないのだ。  この繰り返しが生んだ一つの仕事、それが「惠泉塾」である。惠泉塾は神の愛が溢れ返るほどにならないとできない。神の愛が溢れるほど流れて来なければ人を愛することはできない。持て余すのが関の山であり、実際、全国の惠泉塾が行き詰まっている。神の霊に促されてやってみるが、やってみて初めて敵を愛せないことが分かり、自分の小ささが分かる。理論や理屈では、愛する者、即ち、神の子にはなれない。神の子の実質は生活で表現してみなければ分からないのである。敵愾心を燃やさなくて良いとは何と楽なことか。そして、それは実現可能だ。「愛せよ」とは「好きになれ」ということではない。「相手の必要を満たせ」ということである。これを愛という。 天地創造の前から神が計画されていた異なる者が互いに愛し合って生きる社会、これが天国であり、キリスト教の福音の内実である。神の願いは平和の実現であり、敵対関係をつくらないことである。世の評価がいかようであろうと、天の父は神の子クリスチャンに恵みを与えて下さる。そのために御子を遣わされ、信じる者を罪の縄目から解放して愛する力を与えて下さったのである。そりの合わない人や嫌な人でも大切にしてその必要に応えよう。神が差し出す隣人を精一杯愛することのできる命を下さい、と求めよう。  このことを45年間実行し続けた私には今、惠泉塾という共同体と群れが与えられている。ここで育った人たちとの麗しい人間関係はまさに宝である。この愛し合う関係、血は通わなくとも家族より家族らしい共同体、生活費を要求されず、金銭の授受がなく、与えられたもので満足する世界はますます拡大している。これまでたくさんの人が心のふるさととして忘れがたく思い起こしている。この世界が縮小しないのはなぜか。一人ひとりが喜びをもって帰るからであり、ここに神が生きておられ、神の愛が流れているからである。愛が人を癒し、愛が人を甦らせる。 私は、世界中探しても、こういう共同体は他にないのではないかと思う。21世紀の現在、命が流れており、そこへ行くと群れが生きている。3年後には死んでいるかもしれない。死臭がするかもしれない。生きているとは永続しないものであるが、今のところ健在である。この溢れ返る命の泉を、全国各地、世界各国にも掘り起こしたいと切に願う。  この社会には希望がない。聖書にある希望が世にはない。惠泉塾はこの希望の小さなしるしである。さらに多くの悩める魂がここで命を回復すれば、どんなに大きな喜びが天にあることだろう。置かれた持ち場で一人ひとりが神の命を流す泉となることができるよう、切に祈り求めていこう。