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7月 大自然の中の奇跡の学校(詩篇92篇2003年のメッセージより)

 「主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。主よ、御業はいかに

大きく、御計らいはいかに深いことでしょう。」(詩篇92:5、6)  神の御業はみんな奇跡だ。悪魔の子として滅びるべき私たちが罪赦されて救い出されたこと、それが最大の奇跡である。イエスキリストの十字架で罪が赦されたというが、その証拠は自分の中に神を喜ぶ思いや神が近くなった感覚が湧き上がることだ。罪が贖われたと言われても、自分の中に明確な罪の自覚がなければピンと来ない。神が遠く、神との関係がないからだ。もし、突き上げる喜びやこみ上げる涙があるなら、神に近づき、神と無縁ではなくなった証拠である。けれども、それは私が近づいたのではない。神の側が近づいてくださったのである。神が近づき、神がとらえ、神が魂を揺さぶって私を喜ばせてくださったのだ。だから、私たちはただ神の偉大な御業を賛美するしかない。  そして、また別の奇跡は、北海道の大自然の中に人生の学び舎を作ろうと意志されたことである。人間がどんなに素晴らしい存在であるか教えたくて、神はその僕に御声をかけ、任務を授けられた。壊れた人、社会からは捨てられたような存在を呼び寄せて神の尺度に合わせて作り直し、本来あった輝きを取り戻させる。そのためにはどこかで教育され、埋もれた才能を引き出されねばならない。綻びを繕い、壊れたところを新たに造り直して本来の姿を回復する場所、人間の本当の学び舎、それが惠泉塾である。生活からの学びはもちろん、芸術からの学びも必要だ。芸術は私たちの隠れた才能を引き出してくれる。今後、惠泉塾に世界一流の奏者を招き、皆で一緒に演奏を聴くことも夢ではない。 人生というものを考える学校。人間はいかに生きるべきなのか、それを考える学校。老人と共に、幼児と共に、病む人と共に、健康な人と共に考える。人間は何のために生きているのか。どう生きることを神は望んでいるのか。動物と共に、植物と共に考える。私たち人間は何をすればいいのか。夜空の星と共に考える。私たちは何のために造られたのか。 それが惠泉塾。日本の小さな島の一角に、途方もなく大きなことを神はなさる。そして、全世界の人がここにやってくる。一度でも体験したくて、一度でも神の学校で学びたくて。 異なる文化を背負い、異なる言葉を操る人もここに来て共に暮らす。「生きるとは一体何か」。神は何と大きなことをなさるのだろう。御計らいは何と深いことだろう。  生きていることを喜び、生かされていることに感謝するためには、目を覚まさねばならない。私たちはどのように造られたのか、何を期待されているのか、神に尋ねなければならない。私たちは本当には自分のことが分かっていない。神の御光の下に来るとき、初めて本来の自分の姿を発見する。それはみごとな大輪の花である。その魅力には永遠性がある。こうした計り知れない人間の魅力や能力を引き出すために、神は惠泉塾をお造りになった。一人ひとりの人間に対する深い神の愛である。