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9月 義に飢え渇く人々は幸いである(余市惠泉塾/朝の聖書の学びより)

 水谷先生のメッセージを聴いていると、信徒である私たちは飢え渇かざるを得ない。先生のすべてのメッセー

ジは飢え渇きを覚えさせるためにあるのではないかと思うほどだ。 聖霊の内住によって人はこんなにもつくり変えられ、神の人生を生きるようになるものかと驚き、憧れる。語っているメッセージを、先生は、実際にその通りに生きているから、はっきりとものが言える。真理を生きているから、水で割って語らなくてもいい。ストレートな福音のエッセンスをズバッと語れる。惠泉塾という現実生活の中で真理を生きて人に見せることができる。  「私は自分の語った真理の中に実際に生きています!」という告白こそが「メッセージ」であり、「私の人生を神がお取り扱いくださり、あるときこのようになさいました!」という告白こそが「証言」である。どちらも、神が私と共におられるという告白であるから、聴いている者に神の命が来る。逆に、そういう告白でないメッセージや証言を聴いても命は来ない。 この命、生きた水が私も欲しい。生きている動機が違う。質的に、存在的に、…断絶がある。水谷先生のようには、我が内に聖霊が豊かに宿っていないことをイヤでも自覚し、渇きを覚え、神に祈り、叫び求める者になる。その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになるまで、渇きは止むことがないだろう。しかし、「私もまた…」と希望を持ち、求道心に溢れ、生きる意欲が湧き、人生に目的が生まれる。だから義に飢え渇く人は幸いなのである。  実は、この渇きも神によって与えられる。渇く前の私たちはどうだったか? その人との質的な違いや断絶に対しては腹を立てたり、ムカついたり、反感を覚えるだけだったのではないか? それが、小池辰雄先生の言われる“突破突入”を果たして神が介入されると、人生に大きな転換点がやって来る。私という歴史の中に神を迎え入れ、神によって解放を与えられ、人に安らぎを与えられるような存在になる。渇きもまた、聖霊により神の愛が私の心に注がれることによっていよいよ強くされ、「欲望から完全に解放されて神の人生を歩きたい」と切実に願うようになるのである。  聖霊が我が内に来て神と共に生きるとき、私たちがかつてどんなにエゴイストであったとしても不思議に変化し、あらゆる手立てを講じて相手に恵みを与えたい、という方向に発想が変わっている。新しい命が来ている。新しい時間が流れる。聖霊の世界とはそのように不可能を可能にする、驚くべき神の現実である。それをイエス・キリストはして見せた。天がイエスに向かって開いた。天は今、水谷先生に向かっても開いている。召団の福音の世界大の広がりを見るとき、今、それがはっきりと分かる。先生の存在そのものが世界の希望になっている。  我を捨て、我を差し出し、神の望みのために全人生を傾けようと思える本物のクリスチャンが求められている。私たちも、義に飢え渇く人とならせていただこう。