ニュース&トピックス

【朝礼】惠泉塾の家族として生きるために大切なこと

「惠泉塾に行きたいんですが…」といって、いろいろな相談を受けます。先日は「惠泉塾に行けない人なんているんですか?」という質問を受けました。「いますよ。」「えっ、誰でも行けるんじゃないんですか?」「違いますよ。ここは万人向きではありません」と私は答えました。実際、惠泉塾はどんな人にとっても楽しい場所、意味のある場所、というわけではありません。今日は大切な点を確認しましょう。

 

惠泉塾は家庭です

惠泉塾は病院ではありません。治療や看護が受けられるので行きたい、という人は病院の方へどうぞ。また惠泉塾は施設でもありません。誰かが世話をしてくれる、その世話を受けたい、というのであれば老人施設とか介護施設とか、そういう所を探してください。私たちは「お世話をする専門家」というのを雇っていませんから。

惠泉塾は「家庭」「ホーム」なのです。親がいて、子供がいて、兄弟姉妹がいる。惠泉塾は家庭なのです。家庭というのは契約関係で成り立っておりません。契約書を交わして判子を押して「入っていいですよ」と許可するのは病院や施設です。家庭とはそうではありません。生まれてみたらこの家の子だった、という感じです。夫婦は契約関係です。けれど子どもたちは選べない。そこに「生まれてしまった」のです。

ですから家族というのは契約で結ばれていない共同体です。そのような共同体をドイツ語では「ゲマインシャフト」といいます。人間の本質的な意思で自然に一緒に暮らす集団のことです。契約で結ばれる集団はゲゼルシャフトといいます。会社などはこれです。

惠泉塾で暮らす皆さんは、契約を交わしてここで生活しているわけではありません。皆さんを惠泉塾に招かれたのは神様です。神様が皆さんを惠泉塾の家族として呼び集めて下さいました。「神様が与えてくださった家族だから仲良くしよう」そう思って、家族としてここで共に暮らしているんです。

 

惠泉塾の家族として生きるために大切なこと

惠泉塾で家族の一員として生きる時、次の点を受け入れていただきたいです。

 

一つ目

キリスト教を拒否すると、ここには家族としていられません。惠泉塾は生まれた時からキリスト教です。惠泉塾をお作りになったのは神様です。ですから、ここは神様の活躍舞台なのです。私たちは主人公ではありません。私たちは神様が活躍できるように黒子に徹する存在です。

神様はどういう人のために活躍したいかというと、塾生のために活躍したい。あるいはご老人のために活躍したい。あるいは体の不自由な人のために活躍したい。暮らしづらい人はどうぞいらっしゃい。私たちは家族として歓迎します。私達は黒子になって神様に働いていただきます。

というわけですから、キリスト教を敵視するとダメなわけです。ここを利用して元気になりたいだけ、という方は他にもっと素敵な所があると思いますので、そちらにどうぞ。

 

二つ目

集団生活が嫌な人には惠泉塾は相応しくありません。というのはここには大勢の人が暮らしているからです。大勢の人と暮らすことを受け入れるのがここに来る前提条件です。

自分のわがままというのを最小限度に控えなければ、大勢の人と一緒に暮らすことはできません。実はそれは良いことなのです。自分のわがままを抑えるということは人間の成長にとってとても良いことなのです。野放図、というのはダメです。

集団生活を送ることが前提ですから、集団生活が苦手な人はここで一緒に暮らせません。ただ、小さな惠泉塾というのがあります。熊野、茨城、川崎の惠泉塾は少人数で生活していますので、集団生活が苦手な人でも惠泉塾の家族になれます。

 

三つ目

労働に従事できない人は家族として参加できません。なぜなら惠泉塾では「生涯現役」がモットーですから。新聞紙を切ってお皿の汚れを拭うための紙を作るのも労働です。葉っぱを干してお茶にして飲めるようにする、こういうのも労働です。どんなことでも仕事です。たとえ寝たきりになった人でも「あんたよくやるね」と周囲の人に声をかける、「労わり」という労働をすることができます。ですから惠泉塾では受ける一方の人はいません。みんな受け手と同時に仕手にもなるのです。労働に従事するというのは塾の原則です。

 

四つ目

治療を必要とする病気を持つ人は家族として暮らせません。ですからここに来てから治そうと思わないで、虫歯はここに来る前に直して来て下さい。ここで虫歯になった人は仕方ないですよ。腰痛を持った人は、腰痛を治してから来てほしい。ここで腰痛になった人はもちろん治さなければなりません。こういうわけで最初から治療が必要だと分かっている人は、ここでは家族になれません。ここで調子を崩したら私たちの責任ですから、治療を一生懸命します。

 

五つ目

平和を脅かす危険のある人は家族になれません。たとえば、ここで自殺してしまうなんてことがあっては困ります。「あそこに行って自殺しよう」なんて、そういう風に思わないで下さい。ここでは生きていてほしいんです。ですから死ぬのはどこか外でお願いします。そして死んでから来ていただきたい。ここには死ぬ目的で来ないで下さい。

それから暴力、これはいけません。暴力を振るう人は大変でしょう。言葉の暴力もあります。それから火事を起こす人。タバコの火の不始末をしたり、ガスボンベの口を開けて放って置いたり、こういう人が過去にいたんです。皆さん、信じられないでしょう。火事を出すのは近所迷惑ですから、こういう人とは一緒に暮らせません。

盗みもいけません。もし盗む人がいたら、私は皆さんに鍵を渡さなければなりません。私たちは鍵をかけていません。ですから盗まないで下さい。ぜひお願いします。盗む人は平和を脅かすのです。そして約束違反、これもダメです。約束しているのにすっぽかす。約束違反も平和を脅かすのです。どうも変だなと思ったら、犬散歩を忘れている。犬が可愛そうですね。約束違反しないようにお願いします。忘れないように手の甲に書いていたりして工夫している人もいました。偉いですね。このように自殺、暴力、火事、盗み、約束違反、平和を脅かすことをぜひ止めていただきたい。

 

六つ目

私たちの対応能力を超えた困難な問題を抱えた人は、お世話できません。たとえば今なら発達障害とか人格障害の問題は私たちの能力を超えているのです。だからお手伝いしてあげたいけれど「ごめんなさい。今の私たちの対応能力ではお世話できません」とお断りしています。そして今年から来年にかけて発達障害の方を受け入れるための準備しようと思っています。そして、そういう方々も家族として歓迎できるようになりたいな、と思っています。

それから指導に従わない人、この人も私たちの能力を超えています。「それはダメなんだよ」と言うと「うるさいわね!」と返って来る。これでは「ああ、私はこの人を指導できない」となりますね。ですから指導に従わない人は私たちの能力を超えていますので、残念ですが私たちの家族としては一緒に暮らせません。

それから嘘をつく人。こちらは信じてしまいますから。あんまり嘘をつかれると段々こちらも信頼できなくなっていきます。私たちは愛と信頼の絆で繋がっているのです。契約ではないのです。契約というのは破ったら罰金です。でも愛と信頼には罰金はありません。ですから嘘をつかれたらもうお終いなのです。愛と信頼の関係で一緒に暮らしていますから、絶対に嘘はつかないでほしいです。信頼させてほしい。あなたは信頼しても大丈夫でしょうか?信頼させて下さい。信頼できないと疑い始めたら、もうその人とは一緒に暮らせなくなるでしょう。

 

最後

本人の積極的な入塾意欲が無く本人はここの暮らしが嫌だと言っているのに、ここに無理やり繋いでおく、私はそういうことは絶対にしたくありません。だから「ここで暮らすのが苦痛なんです」と言う人には「ああ、そうですか。ここで暮らさない方がいいですよ。あなたのためにも、私たちのためにも。どうぞ、ぜひ出て行って下さい」とお願いしたい。

ですから、ここで一緒に暮らしたいな、という人で、キリスト教を受け入れてくれる人で、集団生活でいいですよ、と言ってくれて、精一杯働く意欲があり、今のところ病気が無く、私は平和を脅かしません、皆さんの指導に従いますよ、と言える人、家族や教会もみんなが惠泉塾で暮らすことを理解し応援してくれています、という人たちがここに集まって家族を形成していくのです。いいでしょうか。そういうことをもう一度確認して下さい。

「惠泉塾は誰でも行けるんじゃないんですか?」という質問に対して、私はこのように答えました。惠泉塾は、誰でもみんなが来ることができる幅広い所ではありません。すごく狭い所です。私たちの能力にも限界があります。神様が働けるように、私たちは精一杯黒子になりますけれども、争いが生じたり信頼の絆が断ち切れてしまったりして神様が働けないような条件が出て来た時には、神様も働きづらいです。そうすると塾全体がだめになってしまいます。

ですから、今言った条件をよく心に納めて、そしてそれに協力して下されば、この集団はいつまでも神様の守りの中で素晴らしい成果を上げ続けると私は思います。そういうわけで皆さん、今日、そのことを反芻しながら労働に励んでいただきたいと思います。