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余市惠泉塾の開塾式

 

 

余市教会では3月2日(日)、主日礼拝に続き、2025年度の開塾式が行われました。今年は、まずいわきから来た添田竜太郎さんと名古屋から来た神谷美希枝さんが式に臨みました。2月28日金曜日の夕方、緊張した面持ちで余市入りした2人はそれぞれの小さな惠泉塾に温かく迎え入れられた後、土曜日に簡単なオリエンテーションを受けて、さっそく塾生活に入りました。初の作業、ホワイトボードで割り当てられた仕事は「動物飼育」。瓜生正彦、智代子ご夫妻の指導の下、2人は鶏と山羊の飼育に取り組み、惠泉塾で育てられている生き物との触れ合いをまず体験しました。

翌日の開塾式には木下肇塾頭の式辞があり、惠泉塾はどんな所かについて語られました。①生活の土台は聖書であるということ、②異なる個性と暮らす生活訓練の場であること、③労働の恵みが与えられているということ、の3点です。(以下、要旨)

  • 天地万物の造り主である神は私たちの命も造られた。だから、私たちが何のために生きているのか、その答えは神の中にある。それまでの人生を自分のために生きてきて、大失敗をした人たちの群れ、それが惠泉塾である。そうではなく、神のために生き、神と結ばれることで命が流れてきて初めて人は生き生きと生きることができる。その神を知るために私たちは毎朝聖書を学ぶが、一生懸命学んでも、それを実際に生きてみなければ人は変わらない。学んだことを生活する人は変化し、成長する。

 

  • 「互いに愛し合いなさい」という聖書の言葉を受け入れ、信じて生きてみよう。苦手な人とも愛し合うように、と神は皆さんをここに招いた。自分のフィルターをはずして相手を受け入れ、自分も相手から受け入れられることで信頼関係を結ぶのである。皆、自分が愛されたいと思って生きてきたし、そのために努力もしてきたが、誰も自分の求める愛を提供してはくれず、絶望した。けれども、創造主なる神との正しい関係に入るとき、人は絶望の中から立ち上がって生きる力を回復し、元気になる。聖書の言葉に力がある。それを信じて、失敗を恐れずに生きてみたとき、その力が分かるのである。

 

  • 私たちは普通、生活の対価として働いて賃金を得る。でも、ここは神の喜びのために働く場所である。自分が元気になろうと思ってきたのになかなか元気にならない。労働の目的は自分のためではないのだ。神のために生きてみよう。神の喜びは愛し合うことであり、神に労働を献げて仲間と互いに愛し合うのである。そしてそのとき、神は労働の対価として命を与えてくださる。それは私たちを生き生きとさせ、自由な生き方ができるようにする。ぜひ私たちと共に神を第一とする人生を始めよう。

 

この塾頭の力強い式辞の後、塾生の挨拶がありました。証言、メッセージ、賛美、祈り、式辞に続く挨拶では、“緊張状態MAX”だとしながらも、苦しかったこれまでの道程の一端をのぞかせて2人とも涙の告白となり、一瞬、礼拝堂が聖霊に満たされ、聖なる空気に包まれました。これからの塾での歩みを主が祝福されたのだと思います。(長野初美)