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惠泉塾前史~ありがたいかな、憐みの主

(イザヤ10:20~34、ロマ9:6~33)

 

自分の人間的な権勢や財力に頼って、一向に神の言に耳を貸そうとしなかった者も神の怒りの杖なるアッシリアの大軍に来襲されて初めて自分の非を悟り、本当に信頼できるのは主なる大能の神だけであった、と知る。しかし、国民の内の残りの者だけが神に立ち帰るのだ。背神の民すべての滅びが定まっている中から憐れみを受けて帰ることを許される残りの者とは誰か?!

それは我々の側の人間的努力や意志によるのではなく、神の聖旨の自由な選択によって決まるのだ。

自分は生涯罪も犯さず正しく生きて来たから救われるべきだ、と言う人があるか?人は如何ほど努力しようと神の定め給いし律法に達し得ない。主の救いの約束を信じる信仰によって初めて義と認められる。

罪ある者でありながら、滅びの器でありながら、神の側の寛容によって、怒りを忍ばれることによって、滅びをまぬがれ、義と認められて残りの者に加えられる。

更にその元来滅びの器にすぎない土の器に、主はご自身の栄光の富を盛られるという。それによって我々は「暗闇から驚くべきみ光に招き入れて下さった方のみわざを語り伝える」使命を託されるのである。