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惠泉塾前史~復活の真実を喜ぶ

1.愛する人を失った者にとって
復活の事実は愛する人を失った者にとって大いなる喜びです。7つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアは誰よりもイエスを愛していたので、その遺 骸を失った時、泣きながら捜し回り、復活したイエスに出会って、縋りつかんばかり喜んだのでした。ラザロは死んで死骸が腐敗し始めていた時、イエスの一言 で蘇り、泣き悲しんでいた姉妹の手に戻されました。どんなに衝撃的な喜びがその家族全体を包んだことでしょう。ナインのやもめがイエスの憐みを受け、その 一人息子が棺桶の中から立ち上がった時、一切を失ったやもめに、どんなに大きな希望が帰って来たことでしょう。イエスの中に満ち溢れていた神の命は、死人 をさえ蘇らせるほどに盛んな永遠不滅の生命なのでした。

2.死刑を宣告された罪人にとって
復活の事実は死刑を宣告された罪人にとって大いなる喜びです。「私は悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って、生きることを喜ぶ。 もし彼が立ち帰って、正義と恵みの業を行うなら、彼は必ず生きる。」と主は言われます。イエスと共に十字架につけられた盗賊の一人は、自分の罪科を認め、 イエスに憐れみを乞うて、その場で救われ、復活の日を待つ楽園に召されたのでした。今、どんなにひどい罪を犯していても、もしそれを悔いて神の御心に沿う 生き方に乗り換えるなら、生きることを喜ばれる神は、復活の命を与えて、天国に結ばれた新しい人生を用意して下さいます。

3.弱い者、病める者、傷ついた者について
復活の事実は、罪深いこの世と歩調を合わせられず、その被害者になっている弱い者、病める者、傷ついた者にとって大いなる喜びです。彼らをこそ“我が 羊”と呼ばれる主は「私は失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、自分の手で彼らの世話をする」と言われ、牧者として“神の僕ダビデ”を起こし養わ せる、と約束されました。復活したイエスこそ、その約束のお方なのです。彼を救い主と認めるなら、私達は見えない復活の主・イエスに導かれ、利己的な生存 競争のない平和な緑の牧場に今憩うことができるのです。

4.聖なる神の御名にとって
復活の事実は、聖なる神の御名にとって大いなる喜びです。神を信じると言いながら、実際には自分の利を求めてやまない心ない信徒によって教会に争いと分裂が生じ、世間の物笑いになっています。信徒に復活の心と霊が宿る時、神の栄光が回復されるのです。