ニュース&トピックス

惠泉塾前史~本当の謙遜

(ヨハネによる福音書3:22~30)

1.率直な発言を恨む権威者

バプテスマのヨハネは大胆に神の言葉を述べ伝えていました。相手が残忍なヘロデ王であろうと民衆の間に勢力を張るサドカイ人やパリサイ人であろうと、横暴なローマ兵であろうと構わず、率直にその罪を責めて悔い改めを迫り、恨みを買って殺されました。 実際、ヨハネが死んで、ホッとした人は少なくなかっただろうと思います。神の光で自分の闇を照らし出され暴露されて、なお平然としていられる人など滅多にいません。この世に地位や名誉を求める人ほど、ヨハネの粗を探り求め、貶めようとしました。 しかし、この世を遠く離れ、荒野で蝗(いなご)と野密を常食とし、らくだの毛衣を着て暮らすヨハネの中に批判すべき欠点を見いだすことは、容易なことではありませんでした。

2.後輩に嫉妬する世俗性

ヨハネの弟子たちは、民衆の中にヨハネの教えが流布し、勢力が拡大すればするほど、自分たちの存在価値が高まるものと思って、益々ヨハネの信奉者になっていきました。それで、自分たちの洗礼活動の中から生まれた青年イエスが同じような活動を始め、それが盛んになると、嫉妬し、対抗意識を燃やし、自分たちの正当性を主張して、むしろイエスの活動を止めさせたいとすら思うようになりました。その時、彼らは脱俗的なヨハネの弟子でありながら、宗教的優越性を誇り、既存の権益を擁護するために無資格のイエスを目障りに思ったサドカイ人やパリサイ人同様、この世の評価を求める世俗的な人間に成り下がっていたのです。

3.自分の分をわきまえる

「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」とヨハネは言いました。ヨハネの素晴らしさは、彼が神から賜った自分の任務の価値と限界とを充分弁えていた、という点にあります。たとえ自分が先に始めた洗礼活動であっても、大勢の人がイエスのもとに集まるなら、それが神の許したもうところであると、その現実を喜んで受け入れています。それは、彼が自分の任務は結婚式に於ける花婿の介添人である、と深く理解していたからです。花嫁・イスラエルは花婿のものです。花嫁が自分の嫁ぐべき花婿を見いだして、過ちなく花婿のもとに膝を屈めてこそ、介添人の役目が達せられるのですから、イエスの下に大勢の人が集う現実をヨハネは喜び、「あの方は栄え、私は衰えねばならない」と言いました。このヨハネこそ、実に伝道者の模範と言うべきです。