信仰とは異言、預言、霊歌、神癒など、現象として鮮やかに目に映る賜物を追い求めることではない。賜物は永久に自分の手中に独占しておける性質の力ではなく、神が働き給う時、自在に現われる神のみわざのひとつの現象にすぎない。信仰は、また、自分ひとりで生きる自身のない軟弱な者が頼る避難所でもない。苦しい時の神頼みが信仰の本当の姿なのではない。苦難の中に在る時、神は確かに我等の避け所になってさるし、具体的に我々を助けても下さるが、それが信仰の目的ではない。これも、神と共に歩く者が当然体験する神のあらわれのひとつにすぎないのだ。
信仰は人間の側の営利を目的に追及される性質のものではない。自分に力が欲しいから、健康になりたいから、家庭に幸福が欲しいから、それで神をおがむとするなら、それはキリスト教の信仰ではない。
聖書が教える信仰は、人間が、人間の本来の姿に立ち返ることである。即ち、モーセに託された律法が完全に体現できるような、神の潔さにあずかった、うるわしい姿になって生きることである。神の似姿になることである。
それを道徳律のように思い違えて努力と訓練で身につけようとしたら、イエスの受難は全く無意味になる。律法は神の潔さなしには全うできない。
大切なことは、イエスの十字架の贖罪の血によって清められて、父なる神との関係を正しい状態に戻すことである。自我の根から切り移されて、キリストに継木されると、神の愛がおしよせて来る。それが時に著しい現象を伴う。
信仰とは神との正しい関係の中で神によって生かされることである。