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惠泉塾前史~証しに満ちた信仰生活

礼拝の司会の当番が回って来ると憂鬱になる人もいる。人に聞いてもらえるような証しが語れない、と悩む場合が多い。教会によっては、司会者にはごく限られた長老格の人が当てられ、一般信徒や受付や献金、聖餐式の奉仕に当たり、人前で信仰の証しをする機会など殆ど無い。それは気楽のようだが、信徒の魂の成長には役立たない。

司会者が立って信仰の証しをする、という方式は小池辰雄先生の東京キリスト召団譲りである。そして、おそらくそれはまた内村鑑三先生の無教会譲りではないかと思う。しかし、それにしても、一応信仰のしっかりした高弟格の男性に限られているようだ。

札幌キリスト召団は老若男女の別なく、信仰歴の長短に関わりなく、正会員全員に司会の奉仕を割り当てる。「後の者先になり、先の者後になる」の言葉通り、駆け出しの仲間が感動的な証しをすることがしばしばあり、何十年も教会生活をして来た信徒が証し出来ずに苦労する事もある。信仰の世界に限って、先輩後輩はないのだ。

「証し」は自分の信仰生活上の善行を誇る場ではないし、反対に、後悔や愚痴を語る場でもなく、まして、自分の主義・信条について一席ぶつ場でもない。証しは「神様が私の人生にこんなふうに関わって下さって、私は神様のこんな素晴らしさを見せられ、感動しました。」と自分の具体的な生活体験を語り、神様を賛美する場である。要は、“火花の散る血の出る真剣な神様との取っ組み合い”の信仰生活をしているか否か、が問題なのだ。生ぬるい自分本位の生活をしていては、真の証しは生まれない。実体験には本物の迫力があるから、捏造もできない。だから、「証しをする」ということは、惰性に流されがちな自分の信仰生活を検証する、ということにもなるわけだ。

自分では本気で命懸けの信仰生活をしているつもりなのに、いざ、何を語ろうかと考えてみると、どれもこれも語るに足らず、難渋する、ということがある。

この原因については先ず、人前で度胸が出ず、話す要領が掴めず、まとめられない、という事が思い浮かぶ。これは性格上個人差もあるが、人前で話す経験を数多く積むしか方策は無いと思う。又、自分のことを語るのではなく、神様のことを語るのだ、と思えば気が楽だし、人が自分の話を喜んでくれるか否か、ではなく、神様が喜んで下さるか否か、を問題にして話すのだから、評判を気にしたり言葉を飾る必要もない。

二つ目は、祈りっ放しで、自分が何を祈ったか忘れてしまい、律義に祈りに答えて下さっている神様の御手の業を見過ごし、祈りの実を収穫しないまま立ち枯れさせてはいないか、という事だ。祈りは神様との心の行き交いだから、神様の応答を受け取り、たわわな収穫を礼拝の場に携えて来て初めて完結する。それが「証し」となる。