(ヨブ記第19章)
「私を救って下さるお方は実在者であるばかりではなく、今も生きて活動しておられる。今は姿を見せて下さらぬが、時至って必ず顕現なさり、私はそのお方に出会う。私を攻めるお方としてではなく、私の味方として、私はほかならぬ私の目でそのお方を見るのだ。」共同社会からも親族からも見はなされて、絶対的孤立の状態に追いやられて、ヨブは遂に天を見上げ、そこに救いを見出した。暴力的に自分を虐げ、鉄柵で四方を囲んで身動きならぬ状態にし、孤立させ、攻め寄せ、いためつけ苦しめている当の神の、そのふところに飛び込むほかに救いの路はなかったのだ。「舟人はその船が難破させられる正にその岩に、最後にはしがみつく。」とはゲーテの「タッソー」の一節だが、この時のヨブは全くそのようであった。「私の子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められる時、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受け入れる全ての子を鞭打たれる。…私達の益のため神の潔さにあずからせるためにそうされる。」(ヘブル12:5~10)