「私は自分を“キリスト教の信仰を育てる教師”だ」と水谷先生は仰る。そして、「私の仕事は、惠泉塾に神様
から送り込まれてきた塾生を聖書が教える人生観・価値観につなげて、それが彼らの人格に彫り刻まれるまでに生活の中で訓練することだ」とも仰る。そのように、信仰は人格と人格とがぶつかり合い、火花を散らす真剣勝負の場だ。そう教えられ、仮面を脱げと迫られ、私たちはおずおずと裸の魂を神様の前に差し出した。そのときから、神様は、先生を通してご人格として私たちに力強く働きかけて来られる、と知った。以下、「その本質において教師」である水谷先生の文章から、信仰と人格について学んでみたい。 私たちの主なる神様は、私たちの人格に働きかけて来られる。私たちはそれを頭の先で受け止めるのではなく、全人格で受け止めた。そのとき語られた神の言葉を、生き方そのものに反映させ、日常生活の中に溶かし込んだ。 だから、信仰と人格とは切り離せない。信仰は私の生き方そのものなのだ。私の個性に信仰は染み込んだので、聖書と無関係の私の人格というものは存在しない。 私が自分の本心を告白するとき、聖書の真理を語っている。過去の思い出を語るとき、神様が取るに足りない私にどんなに豊かな恵みを与えてくださったか、証していることになる。途方もない夢を語るとき、神様に希望を置いて語っている。およそ神様抜きの私の人生というものは考えられない。 私の信仰は私の人格そのもの。私の信仰を受け取ろうとすれば、私の人格を丸ごと受け取らざるを得ない。私の人格を否定しつつ、私の信仰を学び取ろうとしても、出来ない。 パウロの信仰を受け入れる人は、彼の人格まで受け入れている。ダビデの信仰を受け継ごうとするなら、彼の生き方に倣わなければなるまい。信仰とはそうしたものなのだ。 今、私が語る聖書の真理を学び取ろうと志す人は多い。私が賜っている信仰を自分も手に入れたいと願っている人は大勢いるのに、得られない。なぜか。 それは自分の生き方を捨てないで信仰だけを受け継ごうとするからだ。そもそも、私の人格を無視して信仰だけを取り出すことは不可能なのだ。信仰が知りたければ、その信仰を生きている人の生きざまに肉薄してみることだ。 人を本当に理解すれば、その人の信仰が分かる。神様はその人の人格の内にご自身を表されるから、人を知れば、その内に生きて働いておられる神様がどんなお方か分かる。 ただし、人を知ることはその人と同化することを意味しない。 (2007年4月15日発行「ニュースレター」第173号より)