仮面を脱ぎ捨てて素顔になって、自然体で生きることで人は自由になる。そのとき不自然な緊張はほどけてリ
ラックスでき、自分の力が存分に発揮できる。人の話を肯定的に受け入れることができ、自分の意見を素直に言葉にすることができる。素顔になって初めて本当の人間関係が結べるが、その素顔には三つある、と私は考えている。 第一は生まれたままの赤ちゃんの素顔だ。快いときは笑い、不快なときはむずかり泣く。素直に自分の感情を表現し、遠慮しない。親の庇護なしに赤児は生きて生けないから、親は全面的に赤児の要求に従う。本能のままに生きる赤児は愛くるしい暴君だ。楽な生き方がしたいと思う幼児化した若者は、赤児に戻りたいと願っている。 第二の素顔は、社会で働く大人が自宅に帰ってかみしもを脱いで、自由気ままに過ごすときの態度だ。人は第一の素顔のままでいられない。幼稚園児ですら、親の期待に応えようと背伸びして健気に努力する。親は早熟な我が子を誇らしげに喜ぶので、子どもは仮面をはずせなくなる。学校の教師も、いつまでも子どもじみた生徒より物分りのよい早熟な生徒の方が扱いやすいので好感を持つ。子どもは背伸びが常態になる。思春期に心の健康を崩すのも、背伸びし過ぎて神経が伸び切ったゴムの状態になって、緩めても元に戻らなくなったからだ。 社会は学校以上に背伸びを要求する。服務規程に縛られた長時間の緊張、過度の重労働、職務命令に対する絶対服従、それに伴う上下関係、顧客への応対、言葉遣い、礼儀作法など、社会人の常識が身につかない若者の尻を叩く。官公庁の役人や警察官や学校の教師の酔態が醜悪なのは、過度の背伸びの反動だろう。人は自宅に帰ってまで緊張を続けたくないと思って、社会人の作法を捨て、我が家ではだらしない姿を平気で家人の前に曝す。この世の教育は、内心を包み隠す不自然な緊張を若者に強いる。それが習慣となって人は生涯、苦しい二重生活を送る。そのストレスから人は不必要なほどの貪欲へと逆に振れる。 第三の素顔は、創造主の設計図通りの、ありのままの自分で生きる姿だ。人は本能のままに生きる世界に生み落とされるのではない。本能から貪欲へと教育される世界の中に生み落とされるのだ。育つにつれて肥大化する欲望の奴隷になっていく私たちが、もし、聖書の真理に目覚め、欲望から解放され、愛を追求するようになれば、神に似たものとなる。行動原理が本能から隣人愛に転じ、自然体で人々に尽くす生き方をするようになる。何も無理をしていない。それが神の創造された本来の姿である。傷つき歪められた姿ではない。 人は第三の素顔を回復することで人格的に成熟する。神と足並みを揃えつつ歩いて、互いに愛し合う社会づくりが可能になる。自然体のまま隣人に尽くす。人生の達人になる。クリスチャンライフの理想は、これである。 (2009年 水谷惠信「ニュースレター第214号」より)