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2月 オンラインで広がる「小池辰雄を読む会」~第4回 小池辰雄生誕記念会に寄せて~

水谷幹夫先生へ

おはようございます。本日の「小池辰雄を読む会」、指名されたときには十分まとめられなかったのですが、後で考えたことをお伝えさせていただきます。
小池辰雄先生の提唱された「無の神学」を、真っ直ぐに受け取って、素直に実践に移された水谷先生がどんなに神様に喜ばれたか、私には、一回一回の『無の神学』の読書会で水谷先生の説き明かしを聞かせていただくたびに、しみじみと分かるような気がします。
今、私は文泉書院で「小池辰雄・水谷幹夫往復書簡集」の編集をさせていただいていることもあり、小池先生が若き日の水谷先生を見いだされた発見の喜び、武蔵野幕屋の人間関係における失望や惨憺たる思い、それを水谷先生に打ち明けざるを得なかった当時の心境も手紙から伝わってきます。仕事をさせていただきながらなぜかいつもワクワクしています。

手紙のやり取りを始めて間もなくのころ、小池先生をして「貴君はある意味で、私の魂の世界の跡継ぎだ」と言わしめた水谷先生。その根拠は、不思議に内面的に魂の質が似ているからだ、と書かれています。つまり、無垢で素直な魂であることが大切なのですね。疑わずそのままを受け取って、せよと言われたことを忠実従順に果たしていく。すると、受けた信仰を生活実践する中で、今度は神様御自身が、これをせよと啓示をもってかかわって来られるのですね。今の日本キリスト召団の現実を見て、つくづくその通りだなあと思わされます。
信仰は徹頭徹尾、受け身だ!という教えにも、深く納得させられます。自分のつたない実践や、その失敗体験からもそれを教えられています。「受け身の信仰姿勢とは、神から受けて応答するだけ。身を任せて従っていくだけ。それだけで十分大きな働きになる。神の現実を体験する!」 と、今朝の私の発言に対して先生はそう答えてくださいました。本当にその通りだと思います。が、信じる角度と言うか、その態勢、消息、呼吸というか、頭でなく体で「体得する」というところが、不立文字で難しいですね…。
「信仰は理屈で分かっただけではどうしようもない。それより、信頼する人間の空気に浸っていると、自分もいつしかその人のように変えられていることに気づく。信仰ってそういう形で伝わるものなのです」と、水谷先生が読書会の最後におっしゃったことも、印象深い言葉でした。40年の長きにわたって先生から教えを受け、先生の醸し出す空気に浸らせていただいたのですから、私もそうなりたい!と思わされました。
小池先生は神から遣わされたすばらしい信仰の導師です。そして、無教会の神学的な課題も、実践的な課題も、小池先生の教えを受けた水谷先生が「実践」した結果、なんなく乗り越えて今日の召団の現実に立ち至っている、という事実に驚嘆します。

もし小池先生が生きておられたら、「これこそ私が目指していたものだ」と惠泉塾を見て父は驚くに違いない、と長男の信雄さんが仰っていました。それを聞いても、信仰の生活実践がどんなに大切か、改めて考えさせられます。そのとき、直接神様に導かれる啓示信仰を重んじる群れには、小池先生の信仰が到達したところも、その限界も、誤っているところも、人間ではなく神様御自身が教えてくださり、指摘してくださる、ということも知りました。
私が驚くのは、水谷先生自身はさほど伝道意欲に燃えて闘いの狼煙を上げていたわけではないとおっしゃるのに、神様御自身がこの群れに期待され、介入され、世に大きく働きかけていらっしゃる、ということです。新たに神に捉えられ、この信仰の継承を希望する熱烈な魂、良質で無垢な魂、世にあって世に流されなかった若者や優れた逸材が次々に神様によって招かれ、私たちの前に登場する、という昨今の現実です。

この群れが誕生してからやがて40年になりますが、産声を上げる前からずっと見守らせていただいた者として、これほどの驚きはありません。神は今も生きて働き給う!と賛美するのみです。やはり、水谷先生のおっしゃるように、悪魔の支配する世に期待せず、世と距離を保ちながら、世に働きかけて善きものだけを流し続け、静かに語り続けるという淡々とした営みこそが神様の喜ばれる信仰姿勢なのですね。そして、やはり受け身で身を任せていくだけでいいのですね。
そんなことを思わされた今日の「小池辰雄を読む会」でした。心より感謝して。

(2021.1.29 文泉書院 長野初美)