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3月 惠泉塾 開塾に向けて~命懸けで愛された者が、命懸けで愛する者へ~

 

一 、受けた恵み

私は2020年4月から川崎惠泉塾、同年7月から余市惠泉塾で塾生として過ごさせていただきました。塾生活は常識的には考えられない奇跡の毎日です。生活のすべてが無償で与えられました。自分で働いて得たものは何一つありませんでした。それでは、苦しく貧しい生活を強いられたのか。真逆です。食卓は、全国から毎日のように贈られてくる名産品や、おそらく都会人の誰もが夢に描くような自家栽培の無農薬野菜で彩られ、家族となった仲間たちとの楽しい会話であふれる食卓、健康的な生活リズム、大自然の中でする適度な労働…と、そういう生活だったのです。毎日毎日表情を変える大空に全身が吸い込まれそうになり、飛び上がるほどの喜びで顔が自然と緩んでしまいました。

この、無償で一方的な惠みの泉は、惠泉塾を始められた水谷幹夫先生が、実際にご自分のご家庭や子どもたちさえも、文字通り犠牲にしつつ打ち立てられた場所です。そこで、本来この場所とは無縁の私が、こんなにも豊かに食べて飲み、部屋を与えられて暖を採り、生かされた、という現実…。私は知りませんでした。我が子を犠牲にしてまでも人を愛するという愛を。そんな愛がこの地上に見えるかたちであったとは…。頭では分かっていた。話では伝え聞いていた。神学校で、牧師になる前に、否、なってからも机とパソコンにしがみついて学びはした。私は牧師だったのです。でも、知識だけで神を知らなかったのです。私は、自分の履歴書が、大学だけで4つの大学の欄があるほどの勉強家です。アメリカでも、ヨーロッパでも、世界を経巡って勉強をしました。

しかし、見つけられなかったのです。どこもかしこも人間は変わらずに自己中心でした。それがこの北海道の片隅の、惠泉塾という場で答えを見つけました。初めて出会う「生活の中にある神の愛」。自分が犠牲になり、自分を割いて相手に分け与えるという十字架の愛。その実践者がおられた!

二、 天からの職

そうして、恵みだけで生きる塾生活を通して教えられたことは「仕えることこそ、天職」ということでした。惠泉塾の働きは、川崎でも余市でも、どんな作業をしていても心に湧き返るほどの喜びあります。「今までの人生は何だったのか」と思えるほどに濃密で生活実践的な人生の学び舎 、人は惠泉塾に来て皆、そう口にします。私もそうでした。今までやってきたすべてのことが中途半端。満たされずに、不完全燃焼の私。それは自己実現を追い求めてきたからです。牧師であってもキリスト教界で名が大きくなることに憧れ、神学校で教鞭をとろうと、教団の中で名を馳せようと、教会を大きくして信徒からよく見られようと、してきたのです。私は私の心をよく知っています。

ところが、惠泉塾で生きるというとき、自分のために生きる時間が少しもありません。全体のために、一緒に住む家族のために、時間・労力を注ぎます。ここに喜びがありました。これぞ天職!と何をしても思えるのです。真夏の畑の雑草抜きを汗まみれになりながらしては、「わたしは雑草抜きのために産まれたのか」と思え、真冬の薪割りをしては、「あぁ、私は木こりになるために産まれたのか」と思えるのです。そこにある一貫した喜びは、自分ではなく隣人のために生きる喜びでした。全体の収穫のために労する喜び、一緒に暮らす隣人が暖かく生活できるための薪割り。自分は投げ出され、むしろ捨てるものだった。全体に仕えることこそ天からの職。私は体の臓器に過ぎず、体全体が生きるために今日も脈打つ。

聖書の真理。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイによる福音書16:24、25)

三、今度は与える側に

命を懸けて愛された者はどうなるか。自分もその生き方に憧れ、同じように生きる者となります。まるで、お父さんの職業に憧れてお父さんの会社の職業体験に来た子どものように。今までどうしても自力ではできなかったこと、愛すること。自分を犠牲にして相手を生かすという、十字架に隠された世界の創造の原理。それを、惠泉塾でさせていただけるのです。労役などでなく、「こんな素晴らしい喜びが人生の畑に隠されていたなんて…」という思いです。自分で独り占めしたいおやつを差し出せる。自分が真っ先に満腹したい食べ物を喜んで分け合える。「自分が」こそが苦しみの原因でした。この愛の呼吸を、次の「自分が中心」で苦しむ人に教えたい。手放しても大丈夫、死んでも生きるんだよ、と。

「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカによる福音書22:32)

私はこの場所で迎え入れる方々を、人生を懸けて命を捨ててもよいと思えるまでに愛します。私が惠泉塾で人生を懸けて愛されたからです。命を懸けて愛された者は「拾われた命」の自覚をもつことができます。今まで自分のために生きてきた人生が、いかに惨憺たる命なき人生であったかを思えば、拾われた命です。ふたたび生きて良いと言われ、特赦を受けた死刑囚の命です。解放してくださった主人に仕えようとするのは当然です。もうその主人を絶対に悲しませまい!と奮起します。赦された自由を使ってもう一度自分勝手に生きるのではなく、主人の喜びのため生きるとき、もう自分で自分を守らなくてよい自由があります。何という喜びでしょうか。あなたと分かち合いたい真理。本当の自由。ハレルヤ

(余市惠泉塾  山守 謙)