「主はご自分の民を決しておろそかになさらず/ご自分の嗣業を見捨てることはなさいません。/正しい裁き
は再び確立し、/心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう。」 (詩篇94:14、15) この詩人は貧しく弱い立場にある人だ。人間が誰も味方してくれない。世界中に味方がいない。実は、私にも友はいない。私は多くの人の友だが、私のために命を注ぎ出す人、身を削る人はいない。でも別に淋しくはない。神がいつも共にいる神の道具なので、道具に友は要らない。任務のために立てられ、大いに用いられ、生かされるならそれで十分、神の僕とはそういう人のことである。 本当に神を知ったら淋しくはない。人間は一人であり、どの道、世界に向かって一人で立っている。そのように一人の人間として立つのである。ごく普通の平凡なクリスチャンであっても神と共に歩ける。そのとき、決して孤独ではない。ルターも「我ここに立つ」と言い、一人で世界に向かって立って宗教改革を成功させた。もし、神と共に歩く人になったら一人で十分なのである。多くの人の友になるが、多くの人が友になってくれるわけではない。友を恨む気もない。淋しくもない。それが任務だからである。 「主が私の助けとなってくださらなければ、私の魂は沈黙の中に伏していたでしょう。」(詩篇94:17) 神の仕事に就くならば、神が共にいて食糧を与え、武器を補給し続けてくださる。だから戦えるのである。もし、神が沈黙なさったら、惠泉塾に来ても何も起きず、私は何の用もなさない。惠泉塾がここまで続いているのは、神が沈黙なさらず、もの言い給い、ここで大いに働いて人の魂を揺さぶっておられるからだ。だから、人がここへ来て熱く燃えるのである。 仲間は要らない。組織も要らない。一人の人間でいい。私も一人だった。一人の人間が家族を連れて来てここでこれだけの仕事をする。一人の人間が主の御名にあって立つとき、世界が変わる。大きな出来事が起こる。徒党を組む必要はない。教会は一人で立つ。一人が本物になればその周りに人が集まるのである。本物に飢えている人が、神の現実を見たくて、そこに集まってくる。 もし、あなたが本当に神と出会い、神に捕らえられ、神から命を得て任務に就くなら、あなた一人で世界が変わる。仲間は必要ないのである。孤独に陥るのは、人間がどんなにあてにならないものかを知らないからだ。人間は私たちが仕えなければならない相手であって、恵みを受ける相手ではない。私たちは人間に仕えるために召された。恵みを提供し、生かし、立て上げるために召されたのである。