余市惠泉塾で昨年1年間に4回の葬儀が執り行われましたが、その最後は12月21日に「レストハウス惠泉」
で行われた長谷川ヨシミさん(享年79歳)の葬儀式でした。 ヨシミさんが惠泉塾に来られたのは11年前の2006年。夫でパン職人の長谷川稔さんがマナベーカリーに招かれてから1年後のことです。結婚して幸せな家庭生活を送っておられたはずのご夫妻に、心を病む息子さんのことで大きな苦しみが訪れました。ヨシミさんご自身にも癌という病が与えられ、その苦悩の果てに招かれた余市惠泉塾で具体的な問題解決と病の癒しを祈る日々が始まりました。 惠泉塾に招かれる多くの人はヨシミさんと同じような道筋を辿ります。クリスチャンであっても生ける神との正しい関係を結ぶのでなければ、ついつい神が期待する路線を外れてしまいがちです。そのことに気づかないまま自分勝手に生き続けていると、やがて命の源なる神から離れて死の淵に追いやられます。罪の価は死であり、生きる喜びを失い、出口のないトンネルの中にいるような絶望感に襲われるのです。 けれども、それで終わりではありません。神はそれまでじいっと待っておられ、苦しみのどん底に御手を差し伸べてくださるのです。そのようにして、私たちは「惠泉塾」という一条の光に出会いました。光の中を歩むことを通して初めて、命は神のものであり、自分のものではなかったという真理に気づかされます。この人生もまた神のものであり、決して自分のものではなかった、と。自分勝手に神を離れて生きてはいけなかったのです。 ヨシミさんも自分の夢を我が子に託し、正義感の強いたくましい人間に育ってほしくて労苦されたことでしょう。怪我や事故、病や災害など人生のさまざまな苦しみと果敢に闘って来られたに違いありません。学校も社会も、まさかそれが間違いだとは知らず、困難や不幸に抗って闘うことを教え続けたのです。しかし、実は、病も災いも神が与えたものであり、いわば、神からのプレゼントなのでした。ぜひ、それを教えたいと願われた神は、ヨシミさんから病を取り去られませんでした。また、あるべき正しい道に連れ戻すための一つの手立てとして、息子さんを病に追いやられたのだ、と思います。 神は、ズレやすい私たちにひたすら親として、造り主として、愛する子を鞭打つような試練に遭わせ、「私は主、あなたの神。私の方を向きなさい」と語りかけられます。墓を開き、絶望して横たわっている人を引き上げて復活の命にあずからせ、魂のふるさとに連れ帰るために。ヨシミさんにも、息子さんにも、苦しむことを通して一つの真理に到達するよう、導かれたのです。それが苦しみを与えた神の目的でした。苦しみは不幸ではありません。私たちを導いてまことの幸いに導くからです。 人は生まれて死ぬ、そこに例外はありませんが、地上生涯を生きているうちに真理を悟るべきです。ヨシミさんはその意味で大変幸いな人です。惠泉塾へ来て本当に良かったと思います。苦しみを通して真理を知り、永遠の命に生かされる道へと導かれたからです。確かにその後半生は苦労の多い人生だったことでしょう。しかし、また、慰めに満ちた後半生でもあったのではないでしょうか? 私たちはヨシミさんの人生を通して、いかに生きるべきかを学び取ることができます。また、ヨシミさんが成し遂げた「葬儀」という最後の大仕事を通して、主の素晴らしさを大いに褒めたたえることができます。さよなら、ヨシミさん、ありがとう。栄光在主。