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10月 主が働かれる空気を捜し求めて ~2022.9.18主日礼拝 安間裕璃恵さんの証言より~

 

はじめに

2019年秋、壊れた家族として余市惠泉塾に招いていただき、今年で4回目の冬を迎えます。去年の春、鬱で倒れていた私は8月、先生の奥にいる神様に「従いなさい」と迫られて、神の僕になることを決心しました。そして、今年4月「祈りの家」に引っ越し、7月から6週間、2階の小さな惠泉塾で、心病むHさんを建て上げる“治療”に参加しました。
「やっと信仰のスタート、入口に立ったんだ。」「信仰の戦いは命懸け、これが召団の信仰だ。これでなければお前は、安間家は救われなかった。」
Hさんの治療が2階で始まって1週間、日曜祈り会で自力が尽きて泣く私に、水谷先生はおっしゃいました。この生活を通して、私と私の家族を救った召団の信仰、惠泉塾の生活は、本気の信仰者による自己犠牲の戦いの上に立てられていることを知りました。先生は「息苦しいだろ、ホッとしたいだろ。この緊張感に慣れなさい」「今は信じられなくてもできなくても、前のめりでいくしかない」「そうやってボクはここまで来た、そうしたらここまで来れる」とひたすら励ましました。嵐の中でも神様を信頼できるか、共に暮らす仲間とスクラムを組めるか、厳しい現実と格闘した6週間でした。結果的に、Hさんは4週間目に初めの目的、オムツ生活を卒業しましたが、鮮やかな結果を見ずして一旦自宅に帰ることになり、濃厚な愛し合う空気づくりがいかに難しいかを知りました。その格闘の中で、学んだことが6つあります。

①嵐の中で信頼することを体得する

朝の学び前、Hさんは2時間ウロウロし、落ち着きません。皆で「2人1組でHさんと2階で予習し、他の人は交代で命の糧を得るために1階に降りよう」と提案しました。すると先生は「その考えは間違いだ。この生活から休みが必要という発想をやめなさい。Hさんと過ごすこの部屋をみんなの常設展にし、嵐の中で信じることを体得しなさい」とおっしゃいました。

②隣人の必要のために身体で動く

この生活は私にとって大きな変化をもたらしました。朝2時Hさん起床、トイレ洗面着替えの手伝い、食事介助の手伝い、一緒に農作業、お風呂、6時に川の字で寝る、夜中のトイレに起きる。24時間ノンストップの生活。強制的に、「自分のために生きる生活」から「人のために生きる生活」になりました。身体がぱっと動くよう訓練されました。例えば、朝礼前、誰かがHさんをトイレに連れていくのが目に入ったら、やっていることを止めて立ち上がって付いていく。夕方一息つきたいとき、目に入った洗濯物を取り込んでおく。他のメンバーからも学びました。佐渡山ルミ子さんは、人のしていることに自然に寄り添うのが上手でした。野見山友里さんは機敏な動きで、健康的なリズムを作ってくれます。以前、鬱でいつも倒れていた私は、今は毎日力を出し切っても倒れなくなりました。神様の力です。

③自力はすぐ尽きる、己はうるさい

心は燃えても肉体は弱く、自分の中には自己愛しかないことを知りました。例えば、Hさんの食事介助をする林智美さんが大変そうなので交代を申し出、農作業や風呂も進んで担当しました。しかし、一口大に切る、取り皿に置く、Hさんが食べる、わんこそばのように止まらない流れに「これでは永遠に食べられない」と思う自分がいました。また、寝不足と夏の畑で身体が疲れると、「ホッとしたい。私ばっかり。何で皆代わってくれないの」とつぶやく自分がいました。心が思い通りにならず、このままでは空気を壊してしまう。そんなある日、ルミ子さんが交代してくれました。思わず、私は疲れて、ボーっと食べてしまいました。相手に求めるばかりで労る心のない自分。しかし気力体力は限界…、「神様助けてください」と祈りました。
次の日、第一コリント6:19「あなたがたのからだは…もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」を読み、「そうか、私はただの器だ。つべこべ言わず、食事を助ける手、農作業する器、お風呂に入る器になればいいのか」と思いました。それから毎朝「私は神様の為に生きます」と祈り、ひたすら目の前のことに集中するように努めました。すると、Hさんに食べさせ、皆と会話し、その合間に自分も食べられたらいいか、という気持ちになりました。無心で作業に没頭できる日もあれば、自分に目が向く日もあります。ひたすら神様に叫んで一日の任務を全うしようと励みました。

④聖霊の流れを止めない生き方

ある日曜の夕方、「いかに聖霊の流れを止めないかということが勝負だ、と朝の学びで言われたけど、一体どういうことですか」と先生に質問しました。すると、「礼拝のときバァーっと息もつかずに話すでしょ? 何か感じなかった? あの空気をそのまま2階に持っていく。自分を意識したらダメ。どう見られているか、自分をどう守るかを考えたらこの流れは止まってしまう。ボクは常に他人のことを思い巡らす。それが流れを止めないことだ」と教えてくださいました。確かに、熱気溢れる礼拝を終えて2階に上がると、既にエプロンを付けた先生は腰を曲げて食卓テーブルを拭き、椅子を並べていました。そして調理中、皆が使い終えた調味料を次々に片付け、皿洗いをし、「大きいボールがいるかも」という声が聞こえると、パッと隣の部屋から持ってきます。まず祈ってメンバーの心を神に向け、皆が働きやすいように流れをつくる。隙間を埋めて流れを止めないように動く。神が働きやすいように「心を尽くし、思いを尽くして神と隣人に仕える」ことを実際にやっている人がいる! 私は心打たれて、神の僕の背中を目に焼き付けました。

⑤静けさの中で、メンバーと心を一つにして働く

ある日、畑の除草をHさんと一1対一でやっていたとき、Hさんは蝋人形のように固まったまま動きません。心挫けて「神様、助けてください」と祈りました。すると、山守謙さんが一緒に入ってくれるようになりました。「よし、ひたすら謙さんに息を合わせよう」と思い、お尻の向きを変える、草を捨てに立ちあがる、歩くリズム、とにかく謙さんと二人羽織、一人の人のようになろうとしました。その間にHさんを挟んで作業しました。すると2時間集中した作業にすることに成功しました。あるときはルミ子さん、古賀の藤沢夫妻も加わり、6人1列になってピーマンの雑草を抜きました。2時間黙々と作業をし、「終わります」の声で立ち上がると、ある人のバケツには草がてんこ盛り、ある人は半分、それぞれ引いた草の量が違います。しかし振り返ると、すっきり綺麗なピーマンの列がありました。爽やかな風が吹いていました。そして、Hさん含め一人一人に「よく働いた」という輝いた顔、労働の喜びがありました。
このとき、マタイ20章のぶどう園の労働者の譬えを思い出しました。神の農園では、夜明けから働いた人も、9時からの人も12時の人も5時の人も皆1デナリオンずつもらう。どれだけ働いたかではなく、力ある人もない人も協力し合って働くことが神の喜びなのだ。ルミ子さんは自分のところが終わると、自然に私のピーマン列の裏側を抜き、謙さんは、Hさんのフォローをしながらもりもり抜いていました。
Hさんは帽子をかぶり直しながら、「綺麗になって気持ちいいね!」と弾ける笑顔で言いました。それは素敵な女性の顔で思わずドキッとしました。当時を知らない私も、この笑顔できっとショップヴィタのお客さんの心を掴んでいたんだろうなと思いました。

⑥治療だけでは人は変わらない、優しさが愛ではない

あるとき、水谷先生は「このままホッとする状況を整えていくだけでは変わらない。不本意ではあるが、治療と同時に教育も始める」とおっしゃり、食事準備に参加しないHさんをビンタしました。しかし、その後もHさんの状態は変わらず、自分のやりたいことには正常モード、やりたくない掃除や食事準備には話が通じない病気モード、コロコロ変わる姿に私たちは行き詰まりました。伝道旅行から帰って来られた先生は、振り回されすぎていると指摘しました。何とかHさんが掃除するよう、シャワーに入るよう、聖書を読むよう促すことに必死で、お互いの必要に目が向かず、愛し合う空気が十分なかったのです。
働かざる者食うべからず、と方針を変えました。3日目の朝、水谷先生が再び愛のビンタをしても変わらず、最後は我慢比べになりました。夜、Hさんはとうとう風呂も入らず着替えようともしません。「ここは水谷家です。作業着の人は寝ることはできません」と部屋から追い出し、Hさんと睨み合うことになりました。グッと睨むと、下を向いて目を逸らしました。3日間絶食、うつむいて丸まった肩を見て「かわいそう」という気持ちが一瞬浮かびましたが、「ここは終着地点、もう後がないんだ」と、再びHさんの目を見たとき、「今、こちらの本気度が試されている」と思いました。その夜は結果的に着替えて一緒に寝たのですが、この経験を通して、愛するとは優しさだけではない、人情は一切排除しなければならない、治療も教育も自力では無理、と、実際に肌身で体験しました。

おわりに

Hさんを建て上げる生活を通して、神様はたくさん教えてくださいました。Hさんその人ではなく、仲間の必要を満たす、自力はすぐ尽きる、己はうるさい、厳しい現実の中で愛し合うのは難しい、等々。しかし、それでもなお、私は何としても愛する者になりたい、神様をお招きして、あのホッとする、あのしっとりとした濃厚な空気、何とも去りがたい温かい空気を皆で体験したい、苦しむ人に元気になってもらいたいのです。私は神様によって元気になりました。私は、一生病院にいたかもしれない尚子さん、死んでいたかもしれない私の妹が元気になった姿をこの目で見ました。玄関に入った途端、輝く笑顔になったいわきの女の子を見ました。
神にはできる、何でもできる。私は、ひたすらダビデのように神様を信じ抜きたい。先生が招いている緑の沃野に行き、そこにたくさんの苦しむ人をお招きしたい。そして、愛し合う世界がつくられた、その向こうに一体何があるのか、何が始まるのか、期待して、主に従いたいと思います。