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10月 貧しくみすぼらしい旅人は主ご自身であった

信仰生活の土台はイエス・キリストにある。なぜならキリストの内に救いはあり、模範であるイエス・キリスト

に倣うことによってこの方のようになれるという、ここに希望があるからである。「完全な救い」とは、キリストの似姿にまで成熟させていただけることであり、全き者になることである。99歳のアブラム(アブラハム)に現れた主はこう言われた。「私は全能の神である。あなたは私に従って歩み、全き者となりなさい。」(創世記17:1) こんなに子どもっぽく俗っぽい私でも、成熟したら、あのイエス様のように人のために喜んで犠牲を払える者になるのだ!と思えることが希望である。救いとは大人になること、成熟して真人間になることだと言い換えてもよい。それは、イエス様に接ぎ木されてスタートする。札幌キリスト召団の信仰の土台は、私たちの目標であるイエス・キリストにつながることにより、私たち自身が命の木になることにある。信じる心を与えられ、キリストの似姿に変えられ、命の木になれるんだという希望を最後まで持ち続けることにある。 このキリストに接ぎ木されるという体験が、観念ではなく、リアルに天国につながっていく、と分かるような体験、「主との出会い」と「聖霊体験」によるものであることが大切である。私たちの信仰は、希望という確かな土台の上にある。聖霊により、確かにそうなるという保証をいただくことによって与えられる希望である。聖霊による前味を味わっているという土台がないなら、やはりむなしい。この世の人々と同じように、むなしいものに望みをおいているだけにすぎない。 この希望が実現することは、聖霊の証印を押されていることで分かる。主は私たちに誓い、約束するのみならず、聖霊を与えてくださる。聖霊を通して私たちの内に天国はすでに始まっており、私も主の花嫁となり、ああこのまま天国へ引き上げられるのだと思える。 聖霊の働きが生んだ共同体、それが惠泉塾である。貧しく小さかったのに、不思議に支えられ、人材が発掘され、結び合わされて大きな群れとなり、魅力を放ち、株式会社を生み出した。優秀な人材が集められたわけではない。みんな弱くてみじめで貧しかったが、一人ひとりが生かされることによってこういう集団が生まれた。類まれなる世にも不思議な現実ではないだろうか。これが、聖霊の働きである。 愛なる神のなさりよう、その前味がすでにここに始まっている。だからこそ、その先に天国があると分かる。約束と誓いだけでは信じ切れない。単なる絵空事ではないかと疑われるかもしれない。20年の歳月をかけて今、目の前に展開しているものをよく見よう。信仰はこれだけの力を持っていることを実感してほしい。神の約束されたもの、すなわちキリストによる救いを信じて希望を持ち続けるなら、神の安息に入ることができるのである。 (余市惠泉塾の朝の聖書の学び「ヘブライ人への手紙」より)