わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。(詩篇90:9)
人生がうまくいかないと悩むことは多いが、神が怒っておられることには無知な私たち。生きづらいのは神の御怒りによる。創造主を無視した人間の存在のありようそのものを神は怒っておられるのである。はかないものがはかないままで存在しては立ち行かないではないか!と。「ため息のように消えうせる」人生は「神の御怒りに消え去る」生涯である。 もし、このはかない「人の命」に永遠の「神の命」が流れ込んでくださるならば ―― 。 朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯喜び歌い、喜び祝わせてください。(90:14) そのとき、魂はリフレッシュし、喜びに満ち溢れて生き生きと生きられる。ちっぽけな人間存在が永遠に価値ある存在へとつくり変えられる。何という驚くべきことだろう。 あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。(90:16) それが主の僕らに対する御業だという。神に出会い、恵みの御業によって罪赦されると、その瞬間から神との関係が正され、命を流すパイプが開かれる。その神に信頼して人生を歩み出すとき、神を喜ぶ思いが湧き、神といと近くならせていただいたことを実感できる。神と二人三脚する幸いな人生が始まるのである。 信仰というパイプを通して永遠の神に結びつくこと、これが一番大切なことである。そうすれば、神がその人生を喜んでくださり、素晴らしい御業を展開してくださり、手の業を祝福してくださる。人生は生きて甲斐あるものとなり、存在の意味を見出してむなしさから解放される。神のなさりように抗わず、自分の人生を神の恵みの下に置くなら、その手の業は祝福されて不滅のものとなる。はかない人生が永遠性をもつ。これはとても大きな真理である。 惠泉塾やヴィタポートの働きがこの闇の世に還元されたとき、真理の持つ驚くべき力が現実に発揮された。20年の水谷先生夫妻の歩みが神の恵みの下にあったので、すべての手の業は祝福され、確かな手ごたえをもって神と人とに喜ばれ、壮大な神のご事業となった。この働きは後世に残るだろう。その労苦の実りは泡のようなむなしいものではない。一方、自己満足の人生は泡のようなもの、社会の歯車の一つとなって闇の世に消えていくのみ。 「わたしたちの神、主の喜びがわたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きをどうか確かなものにしてください。」(90:17) 神の恵みが人生を覆うかどうか、神の喜びが人生の上に注がれるかどうか、にかかっている。むなしいからと言って刹那的、衝動的な満足の追求に走ってはならない。自己愛を捨て、たった一回限りの人生を神の恵みの下に投げ出せ。そうすれば、その愛はいつまでも人の心に残り、多くの人の人生を覆すことすらでき、後輩の喜びの存在ともなれる。私たちは平凡な人間だが、永遠の存在になれると信じ、意味のある労苦をしていきたい。