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3月 惠泉塾では皆が小人になっている ~ 惠泉丹波教会 坂口いのりさんの証より~

1月4日からヴィタポートの新年交礼会のために余市を訪れた私は、そのまま延泊して塾で生活し、余市惠泉塾がこんなにも特別なところだったのかと改めて新鮮な感動を覚えました。昨年一泊したときも不思議な感覚を覚え、「余市は凄い。ここでは人間が尊大に振舞っていない。皆が小人になっている」と思いました。ここに満ちる神聖な空気はどこから生じるのでしょう?丹波に欠けていると強く感じるものが何なのでしょうか? 「先生、余市にあるこの聖い空気はどこにもありません!」とその感動をお伝えすると、水谷先生は嬉しそうに、「モデルがあってよかったね。余市は希望でしょ?」と仰いました。息を呑むほど美しい銀世界を眺めながら私は考えました。行き届いた掃除、目に見える清潔感を超えたもっと本質的な聖さが、祈りの家を中心としてこの丘全体に漂っている。濁りのない、澄み渡った空気。人の会話の中に温度があり、一人一人の目に輝きがある。秩序があり、心地よい緊張感がある。早朝の聖書の学び、朝食に続く久々の掃除体験、“小さな惠泉塾”館の食卓にも加えていただいて、私は天国的な空気、愛し合う呼吸を体験しました。 1月7日の朝、先生ご夫妻をお迎えしての祈り会の聖書箇所は詩編99編でした。丁寧に一読すると、詩人の言葉がそのままストンストンと心の深いところに落ちていくように浸透します。頭で理解しようと考えたり、解説書を読んだりしなくても、魂に響くのです。神様が今日、この場所で今の私に語ってくださったのだと分かりました。 「主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。」この冒頭の1節2節は、この数日間余市に滞在した私の心からの告白そのものです。「力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め、ヤコブに対する裁きと恵みの御業を御自ら、成し遂げられる。我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。」4節5節には余市惠泉塾でなされていることが書かれています。私が余市で受けた恵みはこれだった…と思い起こしました。神様は罪に捕らわれていた私の前に顕現なさり、裁きをもって悔い改めへと導き、罪を洗い清めてくださいました。「我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。」締めくくりの9節の最後、繰り返される「主は聖なる方」が私の中に刻印されました。余市豊丘を覆う主の霊を肌で感じ、ひれ伏さざるを得ない心地、皆が主の前に小さく小人になって仕え合っている姿そのものがこの御言葉と重なったのです。 水谷先生が「聖」という言葉を「神様の個性。人間とは全く違う別の御性質。愛、正義、真実、捨て身、公平」と言い換えて説明してくださいました。中でも強調されていたのが「人間とは全く違っている」という一点でした。そのとき、余市滞在中、ずっと神様に問いかけた冒頭の祈りの答をいただきました。「余市にはあるが丹波にはない」「先生にはあるけど私にはない」、それは桁違いの聖さです。聖なるお方、主の圧倒的な臨在感です。 いつかの先生の言葉にありました。「誰か特別の人がいなくても、小さき者たちが神の愛で愛し合おうと熱心に努め励む、その中に聖霊が働いて、そこに天国的な空気が生まれます。」何としても丹波の地に聖なるお方である主をお招きしなければなりません。2018年の初めに一つの目標が与えられました。余市で響いたあの詩編99編の1節1節が丹波の地にあっても同じ響きを持つようにとの祈りです。アーメン