私が3歳ぐらいのとき、原子力研究所勤務の父が発病し、幼い子どもを3人抱えた母は、先行きに不安を抱いて教会に通うようになりました。そんなわけで私も幼いころから教会に通い、神様を自然に受け入れていましたが、13歳で親元を離れ、教会の運営する学校に入って寮生活を始めたとき、同室の上級生にひどくいじめられて対人恐怖症になりました。それ以来、人が怖くていつもおどおどしたような自分に180度変わってしまったのです。
また、大学2年のとき、猛スピードの酒気帯び運転の車にはねられて一時救命センターに入るほどの大怪我をしました。今でも正座ができないなど、両膝を庇う生活をしています。入院中にストレスから精神のバランスを崩し、精神科の服薬も始めることになりました。
2004年、32歳のとき、アルバイトをしていた塾で沢山の仕事を任され、無理をして2、3時間しか眠れない日が続いて5ヶ月後、ひどい躁状態になりました。医者に行くと多量の抗躁剤が出され、今度はひどい鬱状態になりました。そのとき、私は33歳になっていましたが、精神科の医者が信じられなくなり、相談に行った教会の牧師も信じられず、母親も信じられず、八方塞がりになって、暗い部屋に1年近く閉じこもったままで過ごしました。
そんな私のことを心配してくださった教会員の方が、あるとき、水谷先生のテープを沢山貸してくださいました。私はそれを聴いて感動し、慰められ、励まされ、勇気づけられ、惠泉塾に行きたいと強く願うようになりました。信頼できるお医者さんも見つかりました。
そして、神様に導かれて2006年11月、34歳で1週間の体験入塾が許されたのです。惠泉塾の素晴らしさを改めて実感しました。2007年には本入塾生にも選んでいただきましたが、精神病が悪化し、さらには乳癌を発症してしまい、なかなか行くことがでません。
乳癌の治療は2008年1月から2009年5月まで、抗癌剤、手術、放射線、ホルモン治療、と一通り受けました。2009年5月に検査の合い間を縫って父と2人で1週間、再び惠泉塾に来ることができ、その後、私の体にきつい西洋医学の癌治療はすべて打ち切りました。
そして、食事療法を中心とする自然療法を始めました。すると、これを惠泉塾でも特別な体制をとってしてくださることになり、今年2010年の3月から病気療養の形で来させていただけることになったのです。私には本当にありがたいことでしたが、しかし、こちらに来てからまもなく、乳癌が骨や肺に転移していることが分かりました。
骨の痛みは腰、背中、足など全身にあって、毎日その痛みや薬の副作用のひどい吐き気と闘っています。苦しくてとても辛いのですが、このような日々にあっても信仰の気づきが与えられています。自分の力で頑張るのではなく、神様にすべて委ね、すべて明け渡し、どんなときにも最善をなしたまう神様を信じ抜くこと、神様を第一とすることを学ばされています。また、惠泉塾という生活共同体で、愛し合って一つとなるという実践現場を目の当たりにさせていただき、何が愛することなのか、学びと平安を与えられています。
今の私が体験していることは、天国へ行くための訓練であり、準備であるかもしれません。病もなく死もなく、苦しみもなく涙もない、神の愛に満ち溢れている天国へと導かれるよう、神様にお祈りする日々です。
(2010年5月30日ペンテコステ記念礼拝証言 清水 薫)
清水薫さんはこの証言から1ヵ月後の2010年6月27日、やはり、主日礼拝の日に召天されました。38歳でした。水谷先生のおられる余市で死にたい、と他教会からやってきた彼女の最後の証言は、惠泉塾にとっても忘れられないペンテコステの日の証となりました。葬儀は6月6日にオープンしたばかりの「レストハウス惠泉」で執り行われましたが、その折の状況を、惠泉マリア訪問看護ステーションの岸本みくにさんの弔辞から紹介します。
薫さんと初めてお出会いしたのは2009年にお父さんと一緒に惠泉塾に来られたときです。薫さんは癌の治療中でした。『骨転移が分かった日は涙が出た。でも聖書を読んだり賛美したりして落ち着いた』と私に語ってくれました。その頃から自分の死について頻繁に考えるようになったようです。水谷先生に『死ぬのは怖くないですか?私は怖いです』と訊ねたこともありました。痛みは徐々に強くなり、辛いので強い痛み止めが開始されました。
ペンテコステの証の原稿は最初本人が自分で書いていましたが、体力がなくなり、後半は私が口述筆記をしました。咳が出て途中で読めなくなったら代わりに読んでほしいと頼まれ、証言の間、横についていましたが、最後まで大きな声ではっきりと語ることができ、終わってから一緒に神様に感謝しました。証を通して、薫さんは自分の病状を冷静に受け止め、しっかりと天国への希望を繋いでいることが分かりました。
6月に入り、痛みや吐き気は落ち着いたのですが、今度は呼吸困難が出てきました。やがて通院ができなくなり、主治医の訪問診察、酸素吸入が開始されました。その頃より薫さんは「早く天国に行きたい」と心待ちにするようになり、自分がどのような経過で亡くなるのか、質問してくることもありました。「呼吸困難で死ぬのは辛いから、そのときは鎮痛剤で眠らせてほしい」「眠っている間に天国へ行きたい」との言葉も聞かれました。
薫さんは背中を撫でてもらうことをとても喜び、私たちはひたすら背中をさすりました。賛美とマッサージ、これが私たちにできる緩和ケアでした。並んで座ってさすっていると、頭を私の肩にもたせかけて甘える薫さんは私のかわいい妹になりました。
亡くなる日の朝、聴診器を当てると、肺はほとんど機能しておらず、本当に苦しそうで酸素飽和度が下がってきています。私が薫さんに「もうすぐイエス様が来てくださると思います」と伝えると、「ほんと?」と、薫さんは大きな目をさらに大きく見開いて嬉しそうに言いました。「約束通り鎮静剤を使います」と言うと大きく頷きました。ご家族の皆さんが薫さんの周りに集まって互いにお別れをし、その後、薫さんは眠り始めました。しばらくして、札幌から帰ってこられたばかりの水谷先生が礼拝前に祈ってくださり、その3時間後、薫さんはご家族の見守る中、願い通りに眠ったまま天に召されていきました。
私たちはこのレストハウスを、薫さんのような方々を受け入れる場所、「天国への希望を紡ぐ家」としてつくりました。ここで愛する家族、沢山の思い出を遺してくださった薫さんを送る初めての葬儀が実施できたことを、神様に感謝いたします。
(2010年6月28日 故清水薫姉葬儀式 弔辞 岸本みくに)