夏期福音特別集会に向かう前、体は疲れ切って意欲が湧いてこず、カラカラに渇いていた。形成不全のある右の股関節がとにかく痛い。命が欠乏し、自分の内には何もないことを自覚した。私はもう一歩も進むことができず、中風の男のように仲間に運ばれて、どうにか今年も余市にたどり着いた。そこには愛らしい鳥の声。美しい新緑。ゆったりとした川の流れ…。
初日、水谷先生の基調講演を聞いていると、体が内から熱くなってきた。特に手がじんじんするほど熱くなり、「これは?」と思ったが、迫力ある神の言葉の響きに、とにかく私はクラゲのように脱力してただひたひたと浸っていた。何もメモはとっていないが、命の粒子が毛穴から染み入ってきて細胞が活発になるような気がした。
祈り込み会、一日目。千葉で出会った絶望の淵に佇む人々、悲惨な状況の利用者さんたち、心の病から信仰によって立ち上がろうとしているたくさんの隣人たちの顔が浮かぶ。「あの人、この人のために、主よ、聖霊の愛を…」「私は隣人を前に全くの無力です。手も足も出ません。しかし、主よ、あなたは愛です。あなただけが本物の愛です。あなたの愛だけが人を生かします。慰めます。包みます。癒します。新しくします。主よ、あなたの愛で潤してください。私はもう動けません。何もできない者です。主よ、憐れんでください。」
小さな声で祈っていた。目を閉じていたが、会場を歩かれる水谷先生から静かな清流のような気配を感じた。先生の周りの空気が浄化されていくようだ。熱く激しい衝動的な空気ではなく、静かで意志的な空気。それはまるでエデンの園を歩かれる主の臨在のようだった。「あなたはどこにいるのか?」「私はここでうずくまっています、主よ。」私は迷子になった小さな子どものように泣いていた。神様はその細い声をご存知だった。
ふっと、先生の手が背中に触れて私の中に温かいものが流れた。「神の子として尊く…」、その先は覚えていないが、確か、そのように祈ってくださった。と同時に涙が止まり、何かがぴしゃん、ぴしゃんと腹の中に降ってきた。それは、天からのしずくのようだった。静かな水面に幾重にも輪を描いて広がる波のように広がって満ちていき、魂の渇きが癒されていく。不思議な体験だった。打ち倒されて低くなればなるほど、神の命が確かに注ぎ込まれ、その喜びが溢れて「悲しみは喜びに変わる」の聖句通り、神の命は内側から私を変えた。
私の身に起きた変化 ―― 。正直言って私は沖縄と何の関係もないと思っていた。病院もマリアも、「きっと誰かがする。大澤先生がする。清野さんや岸本さんが行く。私には無縁だ」と。しかし今回、沖縄の方々と同室になり、「もっと知りたい。関わりたい」と思う腹の内からの変化があった。一緒にマッサージをし合ったり、便秘の人に「の」の字マッサージをしたり、初めて一緒に過ごすとは思えない親近感が生まれ、「沖縄」を近くに感じた。
そして主日礼拝の前、「ちょっと来てください」と腕を引っ張られ、布団に横になっている沖縄の女性のところへ行った。頭痛がひどくて寝ているその方の枕元へ。おそらく私が看護師なので呼び止めたのだろうが、もちろん血圧計もない。そのときは無策無心。ただその場にいると体の内側が熱くなって祈らされた。「癒し主なる主よ、綻びを繕ってください。神の命で生かしてください。」手からじわじわと熱くなり、触れている頭がポーっと温かくなった。「では礼拝で」と伝えて去った。その後、彼女が270名の中のどこにいるかも分からなかったが、帰り際に走り寄ってこられ、「ありがとう。礼拝に出ることができました。本当に嬉しかった」と笑顔でおっしゃった。この方も大切な沖縄の人材であったのだ。
低き者、小さき者に目を留めてくださる、我らの主の憐れみを讃えます。(写真は第29回夏期福音特別集会での水谷幹夫信仰生活50週年記念式典にて)
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7月 夏期福音特別集会に流れた聖霊の愛 ~ 三反崎あゆみさんの証言より ~
- date: 2018年7月13日
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