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8月 小池辰雄を読む会『無の神学』(第1部 第7章「キリストの幕屋」)より

「神の子」とは、罪人とは全く異なる生命原理で生きている者のことである。十字架を受け取って罪から解放されて聖霊を受ける。すると、イエス・キリストの幹に接ぎ木され、新生して神の命を汲み上げて生きる者となる。愛する者となり、神の子らしく生きられる。
救われているとは、神の子となり、破れ、不完全、不節制は神様がすべて覆い隠してくださるので、全く問題にならないという現実である。破れを繕い、不完全を尻拭いしてくださる神のお陰で、私は、我というものを意識しないで何十年も生きて来た。
しかし、小池辰雄先生は94頁に「キリストの幕屋の現実は、不完全な破れの罪人たる信仰者の姿である。…信仰者といえども破れの相は死に至るまで現実である」と書いている。神の子なのに神の子らしく生きられず、過ち多き人間であるとすれば、罪人のままではないか。「我」があって「無者」ではないということ、救われていないということではないか。
小池先生によれば、破れや不完全が消えるのは新天新地であって、地上では罪人のまま、神は尻拭いもしてくれず、覆ってもくれないという。根源現実において救われているだけで、現実においては救われていないのか。新しく生まれ変わったはずではないのか。私の現実は、地上でも破れはないと言い切れる。破れているのに、人の目には破れていないように見える。神が尻拭いしてくださっているからである。
キリストの幕屋(召団)においては、一人ひとりが神の子、新しい人である必要がある。最初のものが世界中にあり、全体としてキリストの幕屋として新天新地を待っている。十字架によって「無者」とされ、聖霊によって「命」が与えられる。これが救われているという現実である。罪から解放されているので、罪を対岸の火事、人事のように見ていられる。
自分が神の子とされたと分かるのは書斎ではない。愛の実践現場においてである。今、私は一緒に暮らす人の幸せだけを考え、寝ても覚めても相手のために何ができるかと考えて生きている。それが、30年、50年という長さで続く。愛は永続する。神への敵対心や自己主張は全くない。新天新地に行かなくてもこの地上で隣人愛に生きることは可能なのだ。戦場のような生活現場にいて罪を犯す暇がない。そういう生き方は夢ではない。頑張らなくてもできる。そのとき「無者」になれる。すると、神は実によく働いてくださるのである。
天国はありありと愛がご臨在されるところであり、愛と愛とが感応し合う麗しい世界である。現場における分刻みのスケジュール、そこが天国なのだ。神は私から暇を奪った。過酷なまでの殺人的スケジュールによって罪を犯すことから守られている。忙しくて可哀想だと言うが、違う。暇なく神のために働いている人は守られている。逆説の真理なのだ。
小池先生と私との間には次元の飛躍があるが、「惠泉塾」がその飛躍の世界を開いたのではないかと思う。「惠泉塾」を開くまでの私は小池先生と同じところにいた。余市で信仰を生活してみたら、人のために生き、とても自分を守る暇のない暮らしを要求された。その余市で飛躍した。そして「これが無か…」と体験的に分かったのである。
これだけの神の仕事が事実として展開されている。これは罪人の仕事ではない。罪人が完全に贖われて神の子になってこそできる仕事である。人が集まる。金が集まる。倒れていた者が命を得て立ち上がる。すべては献金という浄財だけで賄われてきた。そういう現実に生きて初めて小池先生を超えたと思った。現場が教えてくれた。小池先生から教えを受け、神の命令に従って「惠泉塾」という現場に出てみたら、先生の教えを超えていたのである。(水谷幹夫)