8月の余市惠泉塾「若者の集い」では、『人間にはどれだけの土地が必要か』の読書会を行った。素朴な貧し
い農民をこよなく愛したトルストイの目に描かれた、民話をもとにした作品。土地を持つことに憧れた小作人のパホームが「土地さえあれば幸せになれる、悪魔だってこわくない」と豪語し、ひそかにそれを聞いていた悪魔から勝負を挑まれ、結局は土地の力でやっつけられてしまうという話である。パホームは、念願かなって土地を買い増していき、最後に「一日歩いただけの土地を1000ルーブルで与える」という、彼の欲望が一番満足できそうな話に飛びつくが、ゴールするなり、血を吐いて死んでしまった。 パホームの人生は悪魔のシナリオ通りに展開し、彼は筋書き通りの役目を果たしている。文中に「何度か集まって話し合いをしたが、うまくいかなかった。悪魔が百姓たちの仲を引き裂くので、どうしてもまとまらなかった」と、悪魔の介入が描かれている。仲たがい、争い、妬み、悪口などは皆、彼の巧妙な手口とあおりを食らって引き起こされるのだ。 このタイトルの答を考えたのはAさん。「現状に満足できれば、土地はどんなに少なくとも、たとえ自分の墓場しかなくともそれで足りるが、現状に満足することを知らなければ、どれだけあっても足りない」というものだ。そういえば、パホームは「もっと土地があれば」と文中で10回も言っている。Aさんは、また「足ることを知らないパホームは欲望を野放しにしたので、どんどん膨らみ、身の破滅に至った。21世紀の今でも、欲望の満足を求め続ける生き方への警鐘として、トルストイの民話は生きている」と感想を綴った。 「五十嵐昇さんの朗読でスタートを切った読書会は、ストーリーの流れや内容がしごく頭に入って行き易い時間だった。このような形式の会に参加するのは生まれて初めてだったので、新鮮味があった」と述べたのはBさん。「最初は、『うえーっ、ひどい死にざまだ。人間、こうはなりたくないなー』と、他人事のように捉えていたが、読み進むうちに、話の核心に触れたような気がした。結局、この話が言わんとするところは、『貪欲の報酬は死だ』『人間、欲とはきっぱり手を切るべきだ』ということではないかと思う」と結んだ。 Cさんは「この文章を読んで、田舎と都会の比較、神と悪魔の存在、欲に身を任せて行動するとどうなるかを考えた。初めに登場する姉と妹の会話から、田舎で農業をして自然と調和した人間らしい生活をするのか、都会でさまざまな娯楽や趣味に没頭しながら生きていくのか、どちらが正しいとは言えないが、考えさせられた。二つ目に、物語だけではなく、この世にも神と悪魔が存在し、どちらの側について生きるかが重要だと思った。神に信頼して間違いのない生き方をしないと、いつの間にか悪魔に誘惑されて滅びてしまう。欲望という名の悪魔に負けずに生きることが作者の主張かなと思った」とまとめた。 この作品には、神は愛である、と喝破したトルストイならではの思想が、民話の装いを借りて力強く語られている。五十嵐さんは、途中から登場する作男に注目してほしいと呼びかける。物語の中では一言も語らないが、穴を掘って死んだパホームを埋葬する作男こそがイエス・キリストではないか、と。悪魔は最初に人を喜ばせておいてから、どん底に突き落とす。悪魔に欲望をあおられると止まらなくなり、ついには地上に墓穴しか掘れないのだよ、と、神は人間にキリストを通して無言で訴えかけているのかも知れない。みんな、興味をもって楽しく深く学べたようだ。