2019年8月30日(金)、第3回小池辰雄往生記念会が、小池辰雄先生のご二男照雄さんと奥様の民子さんをお招きして、余市教会「惠泉祈りの家」で行われた。実行委員長は水谷幹夫先生。以下、プログラムの「ご挨拶」から ―― 。
「先生が天界に往生されて23年になります。それは惠泉塾の活動の期間と同じです。先生の教えてくださった真理を生活実践して私たちの群れは今日の驚くべき繁栄を見ました。 先生が語られた『無の神学』には命があります。自我に縛られた『古き我』を脱ぎ捨てて無者であるキリストに接ぎ木されて、全く新しい『無者の我』となって生きるとき、モノクロの人生が総天然色の世界に変わるほどの変化が起きます。激しい自己主張の嵐が過ぎ去り、自己実現の根深い野望が跡形もなく消え去り、爽やかな透明の風が心に吹き渡ります。あれほど人の噂や人の目を気にしていたのに、今では神の教えだけが心を捉えて、ひたすら隣人愛に専念しています。私たちの群れのテーマである『愛し合う世界づくり』は、先生の『無の神学』の上に成り立っています。パウロの『我もはや生くるにあらず。キリスト、我が内にありて生き給うなり』という告白が自分のものとなって初めて、私たちは愛する者になることができるのです。ありがたい真理です。」
「無者であること」が信仰においてどんなに大切か、私たちは日々に痛感させられている。また、その真理の大きさに驚いている。一人の人を丁寧に愛そうとするとき、自分を手放さなければ相手を受け入れられない。小池辰雄先生の「原理」に、私たちの群れは「実践」で応えながら、救いの内実を満たすためには無でなければならないことをますます思い知らされている。記念会では、水谷先生による小池辰雄著『無の神学』の読書会が行われた。
「まことにキリストの十字架は歴史を両断する啓示の出来事であった」と小池辰雄先生は述べている。「キリスト・イエスが十字架を以って完全に罪の贖いを成就した、という歴史を破る啓示的事実が土台を成している」ゆえに、「新約における回心、むしろ回帰(全存在的転向)は旧約の場合に比すれば、神学的に高次なものである。」(『無の神学』141、142頁)
私たちが十字架で死ぬとは、死んだキリストと一つになることであり、「十字架信受」とは、私はキリストと共に十字架されたんだと信じ、受け入れることである。現実は変わっていないが、信じて受け入れるのである。すると、現実が変わる。
「キリストの十字架を霊的に具体的に祈りの場で受け取ると、信仰の現実では罪なき無者たるの絶対恩恵の中に入る。その直後、無者の中に聖霊が臨む。聖霊は十字架体受の無の場に無条件に臨む。」(同143頁)
「十字架体受」とは、キリストの十字架を霊的に具体的に祈りの場で受け取ることである。すると、信仰の現実では「無罪者」とされるという。小池先生は、具体的現実ではいろいろあって、過ち多き者だが…、と仰りたいようだ。が、水谷先生は、具体的現実でも「無罪者」だと言い切れる、と仰った。泥沼に入っても危なくない。売春婦と付き合っても染まらない。もう神を裏切るようなことはできないから、罪の現場でも罪に染まらないのだと仰る。
そのような「無罪者」であることを受け取ったら直ちに聖霊が臨む。十字架を体受すること! 自分なんかもうどうでもいいと思うこと! すると聖霊が臨むのである。聖霊は大変な力を持っている。全我を十字架の主の中に祈入することも難しくない。聖霊が上から圧倒的に臨むからである。向こうから来る。努力するのではない。常に受身形である。ぜひ、皆さんも無者となって十字架を体受し、聖霊を内に宿して人生の実りを見、生きていることの喜びを味わってほしい、と、水谷先生は実感を込めて語られ、講解を締めくくられた。
著作から命を汲み上げて私たちの魂はますます燃やされ、小池先生、水谷先生という信仰の巨人を師と仰ぐ幸いを噛みしめた。記念会を祝福してくださった神様に感謝します!