「アブラムが99歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。』アブラムはひれ伏した。」(創世記17・1~3)
神はその始まりから終わりまで人類の歴史を導き続けておられる。そういう神の編まれる歴史の最先端を行く私たちクリスチャンは、互いに愛し合って一つとなるために選ばれ呼び集められた。神の秘められた計画という歴史的な出来事は、パウロに啓示されて発見され、聖書には説かれているが、それ以来、人々に読み過ごされて2000年実現しなかった。その小さな雛形を今、日本の北海道の片隅で神ご自身が推進されている。現在起きているこの稀有な出来事の登場人物は、名もない平凡な札幌キリスト召団員たちである。
アブラハムも、きっとそういう名もない平凡なユダヤ人だったに違いない。75歳のとき神と出会い、主の言葉に聞き従ってカナン地方へ旅立った。99歳のとき再び出会った神に「全能の神」という名を名乗られ、平凡な男に神が介入するというとてつもない出来事が起きた。そのときからアブラハムの血縁は乗り越えられ、「永遠」「全き者」「諸国民の父」となった。「すべて」の信じる者の「霊の父」「信仰の父」となったのである。
神の介入を受けたアブラハムは契約の相手としてふさわしかったのか? 答は「ノー」。しかし、神は彼に期待することなく、責任をすべてご自身が負われる覚悟で彼との間に契約を立てた。それでも、さまざまな試練を通して教育し、契約にふさわしい相手となるように彼を育てた。「わたしは全能の神である」と名乗ったところに意味がある。無から有を生み出すことも、死人を甦らせることもできる。人間からはその約束がいかに途方もないことに見えても神には二心がない。アブラハムも真心で受けとめねばならなかった。
契約とは二者を最も固く結びつけ、円満な関係に導くものである。神との契約は、人間を神のものとするために神が全く自由に結ばれた永遠の約束である。人間に求められることは、自分の人生をストップして神の人生を生きること、主に仕え、主に聞き従うこと、無者となって神の計画「愛し合って一つとなる世界づくり」の中枢を担うことである。洗礼を受けて神と約束しながらキリストに繋がらないクリスチャンは、契約を守れない者であり、神から見れば二心の者である。
ある朝の祈りの中で、水谷先生に、この群れは札幌キリスト召団ではなく「日本キリスト召団」と名乗るべきだという思いが湧いた。この群れにはリアリティーがあり、実質があり、世界的な広がりがある。水谷先生は「日本キリスト召団」を立ち上げた小池先生の思いを復活させたかった。何より神がそれをお喜びになる、と確信したという。
日本に、世界に、「愛し合って一つとなる世界づくり」という神の秘められた計画を実現成就しなければならない。神はその目的でアブラハムを選んだ。イサク、ヤコブ、ヨセフ…と続く選民イスラエルはしかし、祝福を独占する方向へと歴史を捻じ曲げ、聖なる神の計画を頓挫させてしまった。選ばれたことに胡坐をかく目の見えない民であった。
泥沼に飛び込む愛の実践家と、神は共におられる。神が共にいるとはこんなにも強い。一人でも立てる。一人の信徒が立てば、全国に伸び広がって350人の群れとなり、日本キリスト召団の名にふさわしく育っている。この群れは沃野を離れ、荒れ野に出て苦しむ人、救いを求める人を泥沼から引き上げる福音を今日も伝えている。