20歳で神と出会った水谷幹夫先生は、その50年の信仰生活を振り返って「まるで旧約の預言者のようにして生きてきた」と、ニュース・レターの中で次のように語っている。
「霊に目覚めた私は神の声を聴いた。今思えば、それ以降の私は、まるで旧約の預言者のようにして生きてきた。霊の語りかけをしばしば聞く。自分の思いにはない『神の言葉』を必要な相手に取り次ぐ。彼らは決まって衝撃を受ける。自分の口の言葉が自分の意図を超えて次々に実現していく。それはいつも驚くべき事態である。小池辰雄先生は私に向かって『どん底の愛の人たれ』と言われた。『そこに君の天賦天職がある』と。そして、ホセア、エレミヤ、第二イザヤの名を挙げられた。私は今、そのことを深く思う。札幌キリスト召団も惠泉塾もヴィタポートも、神の国の前味として救われる人々の前に、体験できる形で提示されている。それは、イザヤが腰に荒布を巻いて市中を巡り歩いたり、エゼキエルがエルサレムの街と取り囲む敵の軍隊の模型を作って見せるのと同じ預言的仕事のように思える。私の同時代人はこれを見て、体験して『神の意図』を知らねばならない。」
(2016年5月17日発行「ニュース・レター」第270号より)
では、水谷先生率いるこの群れを用いて、神はいったい何を象徴しようとしているのか。どういう内容を預言しようとしているのか。その答も、神はまた、水谷先生に啓示された。それが「神の創造の目的」であり、「神の秘められた計画」であるという。
「2003年前後からボツボツ語り始められた『神の秘められた計画』は知れば知るほど奥が深い。そこに神の天地創造の目的があり、私たちの人生目標がある。善悪の価値基準も正義と不義の判断基準も、神に対する罪の何たるかも、これによって明確に説明できる。イエス・キリストがこの世に降臨した事情も、十字架の秘儀も、聖霊が不可欠であるわけも納得できる。聖書が私たちに教える『救い』の内実もこれなしには正しく掴めまいと思う。」
(札幌キリスト召団総会資料「2018年の伝道活動の総括」より)
惠泉塾に入塾してもここの生活が厳しい、辛いと言って流れに乗ろうとしない人がいる。忍耐できず、逃げ出そうとして何度も脱走を試みる人がいる。引きこもり、現実逃避が習い性になっているのか…。普通なら退塾を命じられるところだが、もうほかに行く所がない。
惠泉塾が神によって聖別され、預言的な仕事をするという特別な使命を託されていることなど彼らは知る由もない。「正直、みんな本当は僕と同じように辛いんだろう? 我慢しているだけじゃないの?」と言う。価値観がひっくり返らなければ、到底理解できないのだ。
彼らは世俗の価値観を色濃く刷り込まれており、私たちはその闇から容易には解放してあげられない。神が共にいなければ神の価値観に徹し切れない。人間の弱さ、無力さを突きつけられる。そのジレンマと闘っている。
けれども、人間の言葉ではない、神の言葉が先行しているこの群れの歴史をよくよく知れば、神に託された特殊任務に気づくことができるだろう。エレミヤのように神の言葉のパイプ役として生かされている水谷先生をよくよく見れば、神が何のために人を創造されたのか、その意図が分かるだろう。今、苦しみのただ中にいる人も自分の存在意義に目覚め、自分の価値を知っていてくださる神の愛に目覚めて涙するに違いない。
「光あるうちに光の中を歩め。」惠泉塾があるうちに、私たちはここで、見るべきものを見て、体験して、希望の光を見いだし、「神の意図」を知らなければならない。