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4月 かすみ草 風のいよいよ透きとほり ~余市惠泉塾の開塾式のメッセージ~

皆さん、私たちは「自分の人生」を生きているでしょ? つまり、自分の好きにできる時間やお金が少しは欲しいとクリスチャンでも思うものです。ところが、私には自分の時間も空間もお金もありません。すべては神のためという「神の人生」を生きています。

生きられるだけ生きて、死ぬときは死ぬ。生きている限りは神のために生きるという、これが「聖なる生き方」です。そして、惠泉塾はこの聖なる生き方を教えるところです。そういう生き方がどんなに心地良いか、我というものを手放した人生がどんなに快適か、教えるところです。というのは、神のために生きていると神が味方するので、人生のあらゆる問題は解決するからです。そういう生き方を、惠泉塾で知ってほしいと思います。

今年入塾する皆さんには三つのことをお話しします。

一つ目は入塾の目的です。皆さんは、今までの世俗的な生き方から転身するチャンスを得たのです。だから、今までの古い生き方をやめて、惠泉塾の新しい生き方に乗り換えましょう。生き方を変えることによって自分の問題を解決すること、これが惠泉塾に入塾した目的です。自分の居場所づくりをするところではありません。生き方を変えたくないならここにいても仕方がありません。世俗の生き方とは全く別の価値観で生きる生き方を伝えたいのです。そのための惠泉塾です。それを忘れないようにしてください。

二つ目は惠泉塾での暮らし方です。先ほどお話しした「聖なる生き方」をみんなで目指していると、ここに「聖なる空気」が生まれます。それは「愛し合う空気」です。そして、この空気が人をいやすのです。ですから、ここに世俗、つまり「俗なる空気」をもち込んではなりません。聖なる空気を乱してはなりません。

たとえば、欲望の満足の追求でいうと、食欲、性欲、物欲、名誉欲、これらは神に頼るという信仰生活の邪魔になるのです。神様に信頼してほしいのに、神より物や金に頼る気持ちが根を生やし、物で満足する生き方を助長します。恋愛感情なども独占欲につながります。競争原理や相対比較で苦しむのはとても残念な苦しみ方です。聖書を学んで人間は比較できない存在であることを知り、与えられたものを感謝して受け取り、それで満足することを覚えてほしいのです。神の喜びになってほしいのです。

三つ目は惠泉塾のあり方です。惠泉塾は目的を果たすための通過施設であり、永住する場所ではありません。ここで長く暮らすと、だんだん荷物が増えてほこりが溜まり、考え方も保守的になります。ここに安住して自分の暮らしやすさを求めることなく、緊張感のある変化の多い生活に耐えていきましょう。その中で、ぜひ、信仰によって道を切り開く生き方を身に着けてください。本気で神に仕えれば、神は道を開き給います。愛し合う輪ができて、そこに救いが生まれます。

私は神から「私のために聖なる生き方をせよ」と招かれてそれに応じました。病にも貧困にも動じず、ただ神のために精一杯尽くしたいとの思いに駆られて過ごした24年でした。惨めだとも嫌だとも思わず、「あなたがなさることですから、すべて受け入れます」と引き受けていくと、何とそこには感動の多い人生がありました。

世俗の生き方「俗なる生き方」は合理主義です。強い者が勝つという弱肉強食社会を築いています。「聖なる生き方」は弱い者を大切にし、小さい者を無視せず、貧しい者の友となり、病める者に寄り添う社会づくりを目指します。

私たちは、今年度入塾した二人の塾生が神の働き手として立て上げられていくために、できる限りのお手伝いをします。その人たちの存在が、この福音を広めるために役に立ってほしいと願ってやみません。

(水谷幹夫/2019.3.3 余市教会 惠泉塾開塾式のメッセージより)