「しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。」(Ⅱペテロの手紙 2:7、8)
「惠泉塾にとどまれている時点で、君は『(神の目に)正しい心』を持てているんだよ。」
余市惠泉塾を1週間ほど離れていた後の、初めての祈り会で、木下肇先生は少し冗談めかした笑いを口元に浮かべながら、そうおっしゃった。ちょうどその日の聖書箇所は「Ⅱペテロの手紙」2章だった。余市を一旦離れる前の私なら、この言葉に反発するか、少なくとも混乱するか、したことだろう。しかし、今回は、何となくではあるが、その言わんとした意図が直感的に分かった気がした。以前なら、「その考えはローマカトリック的な『教会に所属することによる救い』ではないか」と考え、反発したことだろう。けれども、今はもう少し柔軟に、言わんとするところを受け取ることができたように思う。それは、余市を1週間ほど離れたことによる気づきの蓄積によって結実したものだったと、私は考えている。
北海道を一時離れることになったのは、そもそもパンの研修で神奈川県の秦野市まで行くためだった。そして、関東地区に行くついでにということで、千葉にある実家にしばらく帰省することになっていた。両親への証が目的だった。建前上は。けれども、本当のところを言えば、余市惠泉塾での共同生活に音をあげていて、少し距離を置きたかったのだ。一旦離れてみて、外から余市を見つめてみて、この1年間、しゃにむに取り組んできた自身の信仰生活を捉え直してみたかった。
長い間、基本的に一人で行動してきた私にとって、惠泉塾の共同生活は次第に重苦しく、息詰まるものとなっていた。夜明け前の聖書の学びから夜布団に倒れこむまで、ほぼすべて一人の時間はない。そのくせ、食事の時間には、私の周りの座席だけ、いつまでたっても人が埋まらず孤独な思いをする。そんな、ガヤガヤとした人の集まりの中で、孤独感・疎外感を抱えながら生活を続けることが、心底イヤになっていた。とにかくこの場所を離れてホッとしたい、一人でじっくり考える時間が欲しい。そんな思いで頭をいっぱいにしながら余市を離れたのだった。
余市惠泉塾を出て一番痛感したこと、それは、生活するには何をするにも金がかかるということ。当たり前だ。しかし、惠泉塾に1年も暮らしていると、住むところも、食べ物も水も、着るものも、そして、聖書の学びもみな無料で与えられる。そのことに慣れてしまって、そんなことさえも私にとっては小さな衝撃だった。新千歳から羽田までで1万7千円、羽田から秦野まで2千円、ホテル素泊まりで8千円、朝食はバイキング形式で945円…。余市ではみなタダだったものが、ここではみな値段がつく。水でさえ、さして美味しいとも思えないミネラルウォーターに百何十円かの値段がついていた。水道水の水がとても飲めたものではないので、買ってしまった訳だが。これ見よがしに置かれた有線チャンネルの案内パンフレットを閉口しつつ押しのけてから、私はベッドにもぐり込んだ。しみじみ思った。余市の暮らしは恵みだったな、と。
余市の暮らしも、本当のところは「タダ」なのではない。誰かが犠牲を払って、お金や必要なモノを差し出してくれているのだ。そうして多くの人の善意の上に、いわば幻のように成り立っているのが余市惠泉塾なのだな、と実感した。そしてその蜃気楼を支えている神の御手をも、おぼろげながらに感じた。
余市惠泉塾は、恵みの上に成り立っている。その恵みは「タダ」だ。しかし、その「タダ」が「タダ」であるために、多くの人が犠牲を払っている。そしてその背後におられる神も、また、犠牲の血を流している。そんな恵みにとどまれているなら、その人は幸いだ。神の恵みにあずかれている罪人 ― 何故って何の取りえもないのだから ― を、正しい人という。ちょうどアブラハムの執り成し故に、神の目に正しい人とされ、ソドムとゴモラから救い出されたロトのように。祈り会で読んだ「Ⅱペテロの手紙」2章が自分に迫ってきた。
多くの人が互いに血を流し、犠牲を払って成り立った共同体、それが惠泉塾である。それは決してバラバラの個人が集っている団体ではない。「共同体」としての惠泉塾に、私はやっと気がついたのだった。そして、その構成員の一人にしていただいていることにも。
(余市惠泉塾 伊東啓一)