そして、彼らは新しい歌をうたった。「あなたは、巻物を受け取り、その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。」(ヨハネの黙示録5:9、10)
ヨハネは神の御手に巻物があるのを見た。7つの封印で封じられた巻物、それはまるで遺書のように隠され、秘められた巻物であった。封印を解いて巻物を開かねば裁きは始まらず、悪い者がのさばり続けるままである。6つ目まで封印が切られるごとに、世に災いが起きて神の裁きが執行され、正義と悪の決戦が行われ、ついにハルマゲドンで世の終わりが来る。新天新地が来る。闇の世が終わり、最終的に愛し合う光の世界が広がる。神は歴史を通じて人類をそこへと導いておられるのに、人にはその「神の秘められた計画」が分からない。
この巻物を開くにふさわしい者が誰もいなかったので、ヨハネは激しく泣いていた。神の裁きが来なければ、闇の世はいつまで経っても終わらないからである。すると、長老が「泣くな。見よ。キリストが勝利を得たので封印を解いて巻物を開くことができる」と言った。
神は、一方で悪の勢力を打ち滅ぼし、正義が正義として貫かれる日の到来を約束されている。また、一方で愛し合う世界づくりのために、その担い手となる神の子を生む道を開かれた。キリストは神の御旨のままに生きかつ死に、十字架で悪魔に勝利した。しかし、なぜ、十字架で殺されることによって、殺した相手に勝ったと言えるのか?
イエスは悪魔の策略に乗ったユダヤ人によって「冒涜罪」のためにリンチにあって殺されたが、実は、なされるがまま悪魔の手に身を委ねたのである。イエスは神だから冒涜罪は当たらないし、十字架刑も当たらない。しかし、神の子は悪魔に不当に殺され、裁きを全く神に委ねた。そうすることにより、悪魔は神を敵に回したので、神が悪魔を裁いた。神の裁きがすべてであり、悪魔は断罪され、滅ぼされた。それが、イエス・キリストが十字架上で悪魔に勝利したということである。犠牲的な愛によって欲に勝ったということである。
神が軍配を上げてくださったので、イエス・キリストは「神の秘められた計画」を見、神の側に立ち、神と共に歴史を導く存在として巻物を開くことができた。神は愛し合う世界づくりのために私たちを必要とされ、悪魔の奴隷状態から買い戻してくださったのだが、その代価は十字架で流されたイエス・キリストの血であった。悪魔の子を神の子とし、神のために喜んで犠牲を払えるような、本来のあるべき姿に回復しなければ使えないからである。
これが十字架の意味であり、惠泉塾活動は愛し合って一つとなる世界づくりという「神の秘められた計画」の一環として営まれている。罪人が神の子になる…これが単なる理屈ではなく、今も全国各地で実際の出来事となっている。上田のMさんは10日間で23年苦しんだ自殺念慮から解放され、喜びに溢れて生きている。余市のNさんも10年以上苦しんだ心の病から解放されつつある。
そこでの生活費は無料である。代価を支払わずとも、神は豊かに恵みを与えてくださるので必要はいつも満たされている。皆が自分のもてるものを差し出すだけでよい。神は私たちを決して粗末には扱わない。そういう世界づくりが闇の世でも可能だということを、惠泉塾は証明した。愛し合うところに神が働かれる。そのとき人は変わる。こんな感動的なドラマを毎日のように見せていただいている私たちの前に、ヨハネの黙示録5章はすでに巻物の封印が解かれて始まっているような感覚になる。
(2019年9月8日 丹波教会主日礼拝)