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2月 愛の惠泉漬14年物 ~「長野惠泉塾」保坂美千代さんの証しより ~

2019年11月9日、オペラ歌手の砂田直規さんが上田セミナーもないのに上田バイブルセンターを訪れてくださり、私たちは大喜びで歓迎しました。お土産に魚の粕漬を買ってきてくださり、私たちには手の出ない高級品なので思わず取っておこうとすると、「せっかく3枚買ってきたんだから、3人で食べてよ」と砂田さん。そこで、一つだけ水谷先生ご夫妻が来られたときのために取っておくことにして、その夜、早速銀鱈の粕漬をいただくことにしました。
説明を読むと「水で粕を洗い流して焼いてください。洗い流しても風味は損なわれません。粕が残っていると焼いたときに焦げます」とあります。さらに「冷蔵庫で保存中、毎日刻々と変わっていく風味をお楽しみください」とありました。おそるおそる、でもしっかり粕を洗い落として焼いてみると、中までしっかり浸み込んだ粕が、生の銀鱈とはまた違うものに変質させていました。
その後、「惠泉塾の空気の粕漬」という話になりました。私は惠泉塾と出会って14年、朝の学びの居眠りから覚められず、惠泉塾の命の御言葉が全く入ってこなくて、変化もなく、現実から遮断され、言わば真空パックされたような状態でした。
しかし、余市惠泉塾の空気はパックを通しても染み込んでおり、いつの間にか私は惠泉漬の14年物になっていました。上田への異動前から調子を崩し、被害妄想に陥り、幻聴が聞こえ、「ここにいてはいけない!」との思いに駆られて何度も逃げ出そうとしました。
けれども、調子が悪くても惠泉塾の生活は染みており、「はい、食事支度を」と言えば、妄想に苦しんでいてもエプロンを着け、「掃除の時間です」と言われればバケツを手にしていました。辛くても自分の意識とは別に、身についている従順が体で表現され、余市仕様だったそうです。これが周りからは“牧場の羊”に見えたそうです。「愛の空気の粕漬」を通して、余市惠泉塾の持つ底力を感じさせられました。
12月6日、長野惠泉塾の畑で穫れた野沢菜を漬物にすることになりました。水で3回洗って綺麗にします。余市の漬物作業に比べたら気候も良く、水の冷たさもそれほどではありません。野沢菜も一山だけでしたから頑張ろう!と思いました。
しかし作業を始めてしばらくすると、一緒に洗っていた真理さんの顔が曇ってきました。腰が痛いとのことで、中腰にならざるを得ない作業を交替しました。それでもどんどん泣きそうな表情になっていきます。私も決して楽ではありませんでしたが、真冬の余市の漬物作業(入江治美さん指導の3回洗い)を思えば、何とか乗り切れそうです。
作業中の私語は厳禁ですが、葉っぱの山を見ながら「大丈夫、苦しみは永遠には続きません。終わりがあります」と励ましました。すると「さすが粕漬さんの言うことは重みがあります」と真理さんは笑ってくれました。それをきっかけに気持ちが切り替わったようです。仕上げ洗いをするために庭から野沢菜を運ぶこともよくやってくれました。そして夕食のとき、「私も粕漬になりたいので仕込んでください」と発言し、いつもの真理ちゃんスマイルが復活しました。
8日には本漬けをしました。6キロの野沢菜に塩を振りながら桶に敷き詰め、所々唐辛子を入れていきます。今度は3人一緒の作業です。洗いと同じくらい大変かと思いきや、3人で協力してテンポよく進めたところ、1時間もかかりませんでした。作業風景をスマホで撮影する余裕すらあり、写真は漬物作業の臨場感に溢れていました。収穫から洗い、本漬けまで一人でやることを考えると気が遠くなりますが、皆で協力し、愛し合って作業するっていいな、としみじみ思いました。
信州では野沢菜漬けのことを「おはづけ」と言うそうです。おはづけができるようになったら、信州の嫁として一人前だとか。私たちも何とか信州人の仲間入りができたようです。嬉しかったです。漬けて4日ほどは水が上がってこなくてひやひやしましたが、「呼び水」を打ったところ、何とか上がってきて漬物樽の7分目まで満ちました。異なるもの、野沢菜と塩が溶け合って一つになり、美味しいおはづけになってくれそうです。
私も今年40歳になり、人生2度目の成人式を迎えました。アラウンド40どころではなく、ジャスト40です。精神年齢が低く、年下に見られることも多い私ですが、保坂粕漬け(40)、年相応まで成長できることを願っています。