ニュース&トピックス

4月 時代を執り成す

昭和57年12月21日未明のことである。濃厚な臨在感の内に主は人の世の汚濁に満ちた有様を我が脳裏に鮮

明に映された。私は胸を射貫かれ、沸き返る過去の罪の数々に思わず痛恨の苦汁をなめた。他人事ではなかった。  主の聖憤が悲痛な情動を伴って迫ってくる。私は悔いくずおれる思いで、組み合わせていた両手の指の根に力をこめた。  ―― もはや此の世は滅ぼさねばならぬ ――  それは哀切な響きをもっていた。激しい驚きをもって私は了解した。我が罪が終末のときをたぐり寄せているのだ。神は遂に最期の怒りを発せられるのか!?  その時、エルサレムを前にして慟哭される主の聖姿が想い浮かんだ。  「ああ、エルサレム、エルサレム。おまえ達は見捨てられてしまう!」  これこそ神の側に立つ全ての者の叫びだった。  しかし、今、危急存亡のとき、己が時代の為に執り成しをせんとする者が一人もいない!苛立ちに似た主の聖意。我々が滅びの世から永遠へと聖別された恩寵は己一人贖われし歓喜に明け暮れする為ではない。我が身を救う程の熱心をもって時代そのものを主に執り成す為であったのだ。主は主のためにこれを為せと言われる。義なる主は厳父の如く世を裁かざるを得ないが、なお慈母の如くに世人を愛し、如何に邪悪に染みし人をも主に適しき花嫁に造り変えんが為に我々の献身を求めておられる。そしてアブラハムの如く  「もしここに10人の正しい者がいたら、その10人のゆえに滅ぼさないで下さいますね。」と迫り、モーセの如く  「ああ主よ、私がもしあなたの前に恵みを得ますならば、かたくなな民ですけれども、どうかその悪と罪とをゆるし、私達をあなたのものとして下さい。」 と伏し拝むことを待ち給う。義と愛がせめぎ合う主のこの聖意が心に染み入る。堪らない。内から煮えたぎる思いが噴き上げて来る。私はやむにやまれず、せき込むように祈った。  「この下僕を潔めて用い給え、主様。」           (1983年『エンクリスト』所収 「聖徒らよ、執り成しを為せ」より)