昨年11月、ジャガイモの品種の一つであるニシユタカを植え付けました。芽が出揃い、やがて若葉となり、美しい緑の畝が農業班の喜びとなったのも束の間、葉がみるみるうちにしな垂れ始めたのです。調べていくと、驚きました。根元が掘り返され、ピンポン玉ほどに成長したジャガイモが何者かにかじられていました。
歯型でネズミの仕業と分かりました。夜行性のネズミは夜間に行動を活発化させるといいます。何か手を打たないと被害は広がる一方です。私の予想通り、夜毎に根元は荒らされ無残な姿をさらしています。前代未聞のこの現実は受け入れがたく、リーダーとして私は責任を感じて祈りましたが災いは止まりません。やむを得ず、最後の手段として殺鼠剤を導入するも、時既に遅し、ついにジャガイモ畑のニシユタカは全滅しました。
現状を受け入れた私たちは祈りつつ畑を潰し、無傷のジャガイモはすべて収穫しました。そして、場所を移して新たにメイクイン、キタアカリの品種を入手しての再スタートとなりました。しかし、私の心は晴れず、この出来事には何か意味があるはず、何らかの理由で農園主である神様が警告を発しておられるのではないかとの思いが迫り、祈り求める日々が続きました。
愛し合えない職場は潰す、という水谷先生の言葉が脳裏をかすめます。うすうす気づいてはいたものの、「農業班は愛し合えていない」という現実に向き合うことを、私は恐れて避けていました。しかし、自力の限界に達してもいました。
神様からの明確な答えを求めて祈り続けていた2月のある日、その答えは大澤憲一先生のメッセ―ジに現れました。光が当てられたその内容は、次のようなC・S・ルイス著『キリスト教の精髄』の文章の一節です。
「どうやらわたしの魂の地下室には自己愛という名のネズミが、いつもいるらしい。ところがその地下室はわたしの意識的意志の手の届かないところにあるのだ。わたしはある程度まで自分の行動を抑制することができるが、自分の気質を直接支配することはできない。だから、もしわたしたちの行為よりも心のあり方そのものの方が大切であるとするならば、わたしが最も必要としている変化は、私自身の直接的・自発的努力をもってしてはどうしても引き起こすことのできない変化である、ということになる。わたしたちの魂の中でどうしても行われなければならないことはすべて、神によってのみなされ得るのだ。」
(「霊的現実としての交わり」大澤憲一先生のメッセージより)
ネズミ!「自己愛という名のネズミ」? こともあろうに神様の農園を自己愛という名のネズミが荒らし回っているというのです。そのネズミが自分自身と重なりました。「神の事業は神の命で」と教えられているのに、私は「神の事業を自分の肉の命で」貫こうとしていたのです。そこに大きな過ちを発見しました。神様は気づいてほしかったのでしょう。ご自分の農園を犠牲にしてまで。
何よりも「己を捨てて愛し合う」ことを優先してほしいと望んでおられる神様が、ジャガイモ畑の全滅、ネズミ事件の警告というつらい出来事を通して、私たちに身をもって体験させてくださったのです。
このことを通して私は神様の前に悔い改める決心をしました。ネズミを取り除いてくださいと祈り、自分を黙らせ、ひたすら相手の必要に気づかせていただけるよう心を働かせました。すると不思議なことに、神様は、私が向き合うお一人お一人の良い面を引き出して見せてくださり、私もそのことによってずいぶん補われ、平和な空気の中で愛し愛されることが自然に展開していきました。神様は私にストレスのない日常を与えてくださったのです。
新しいユニットでの生活も始まりましたが、極力言葉を介せず、黙して働き、補い合う朝食づくりを体験させていただいています。その中で、静かで穏やかな時間を共有させていただいています。このほっとする空気は学んだだけで得られるものではありません。心に多くのつらい実験を受けて自己愛という名のネズミをそぎ落とされ、その後に神様から与えられたものだと思います。主のなさりように心から感謝します。
これからも神様にのみ信頼を寄せ、弱く小さな者たちがひたすら愛し合うことに励み、神様に喜んでいただけますように。ますます自己愛をそぎ落としていただけますように。
(2023年4月16日惠泉沖縄教会主日礼拝証言)