召団とはギリシャ語のエクレシアの訳で神に召しだされた人々を意味する。召されるとはどういうことか。神
の憐れみを受けて「いらっしゃい」と招かれることである。神の憐れみを受ける人は神を愛する者、すなわち道を求める者になる。小池辰雄先生はよく「キリスト教ではない、キリスト道だ」と仰っていた。 私たち自身のことを考えてみても、あるときの出会いを通して聖書に興味を持ち、だんだん引き寄せられて道を模索するようになり、聖書の学びや集いに参加したいと意欲するようになって召された一人一人である。 「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ローマ 8:30) 私たちが本気で求道して悔い改めると、やがて神に選ばれる。クリスチャンにしていただける。これを神の側から言うと「義とする」という。神との正しい関係に入れてくださるのである。私たちにできることは、悔い改めることだけ、あとは神の側で用意された道筋を通って、私たちは狭き門より十字架の福音へと招かれる。 召団が語るのはパウロの福音であり、ルターの福音である。神の秘められた計画がどのようにして実現するのかを語るものであり、愛を語る福音である。 今から20年以上前、神は水谷先生にこの永遠の計画について語られた。先生はそのときに目が開かれて、それが福音の中心課題だとはっきりわかったという。 小池辰雄先生が興された全国12召団の中で、神の秘められた計画を啓示によって知らされたのは札幌キリスト召団だけであった。「互いに愛し合って一つとなる」、この神の奥義が知らされなければ、福音をトータルに理解できないと分かり、信仰が命あるものとならないことが分かったと先生は仰る。一番最後に小池先生の弟子となったような水谷先生に神の隠されていた知恵が与えられ、恵泉塾が与えられた。小池先生の講壇が届き、残された蔵書が届いた。 何か優れたところがあったからではない、神の自由な意思によって一方的に選ばれたのだと思う、と水谷先生は仰る。パウロも最もつまらない者である自分が、不思議な神の選びにより、偉大な計画の召しにあずかったと語っている。 私たち一人一人も、召された者たちの中から選ばれていることを信じ、神の知恵、愛し合う方向に向かって前進しよう。札幌キリスト召団はサタンに打ち勝つキリスト教であり、霊的勝利を目指して戦う軍勢である。兵卒が「霊の人」であるかどうかの一字にかかって「恵泉塾」は存立する。