「貴君を友と持つことを地上における私のかけがえのない恩恵の一つと思っています。貴君は、ある意味で、私
の魂の世界の後継ぎである。ああうれしい、うれしい! 貴君も必ずや大歓喜に入る! 終末的現実が ―危機的に― 迫っているのを覚えます。大人物たれ。どん底の愛の力の人たれ! 天賦に生きよ! そこに道あり。そこに天職あり。」 これは1969年、20歳の水谷幹夫先生が65歳の小池辰雄先生からもらった手紙で、水谷先生はこの手紙を魂の記憶に刻んで68歳までの今日まで忘れることがなかったそうです。 それから48年後の今、私たちは何を見るのでしょうか。 1996年、4月7日、余市“村開き”。水谷先生47歳。工房ノアで作った看板の除幕式を行い、惠泉塾は活動をスタートしました。8月29日、小池辰雄先生が天に召され(往生され)ました。78歳で水谷先生を群れの責任者に指名して札幌キリスト召団の生みの親となった小池先生は92歳で亡くなられましたが、その年、奇しくも惠泉塾がスタートしたのです。 それから20年が経ちました。水谷先生をご自分の“魂の後継者”だと手紙に記してから約半世紀後、小池先生が最も望んでいた使徒の昔を思わせる愛の共同体が、ぽっかりと地上に浮かんで存在し続けていたのです。世と隔絶されたユートピアのようにではありません。世の人に受け入れられ、益をもたらして社会に貢献できる大家族のように、です。 小池先生が札幌に蒔いた福音の種は発芽しました。水谷家から始まった家庭集会という双葉は成長しました。宗教法人「札幌キリスト召団」となって葉を茂らせました。やがて、余市に「惠泉塾」が生まれ、株式会社「ヴィタポート」が生まれました。そこに命があったので、色とりどりの花を咲かせ、実をつけました。気がつけば、惠泉塾活動は20年の年輪を刻んで大樹になろうとしていたのです。 しかし、札幌キリスト召団は地下水のようです。人生に疲れた人の命を甦らせる小さな修理工場として北国の片田舎に惠泉塾を営み、人が明るい笑顔で暮らせるよう、忍耐強く見えない働きを続けました。小池先生の「無の神学」という基礎があってこそ「十字架の愛」の実践によって愛する者に再創造された、と水谷先生は仰います。その水谷先生が管となって愛の泉の湧く惠泉塾は誕生しました。その水を飲んで命を回復した者たちが群れをなし、次第に建物が増えて信仰の大家族を形づくってきました。一組の家族のために建物が生まれ、一人のために職場が生まれる、という増え方です。 その根本動機はいつも「どん底の愛」、純粋で小さな仕事でした。一人を丁寧に担い上げるという信仰姿勢が生んだ愛の実りの連鎖がこんなに大きな神のご事業に発展しました。惠泉塾に感激した中国人が「塾は日本の宝ですが、世界の宝でもあります」と言ったそうです。内村鑑三最後の弟子を自認する小池辰雄の預言の実現成就は、神への「賛美と祈り」を献げるため、札幌キリスト召団夏期福音特別集会に250人の信仰の友を呼び寄せました。