イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを
思わず、人間のことを思っている。」 (「マタイによる福音書」16:23) 私たちは、健康や長寿が無条件に幸せの条件だと思っている。しかし、聖書は、病気や短命が不幸なのではないと言う。この世の価値観によれば、健康が幸せ、病気は不幸せ、長寿が幸せ、短命は不幸せ、平穏無事が幸せ、波乱万丈は不幸せ、ということになる。しかし聖書によれば、それは人生を自分のものだと思っているところから来る考えなのだ。たとえば、私が病に陥ってしまった、とする。そこで癒しを信じて真剣に祈った。しかし、癒されない。あらゆる方法を試み、八方手を尽くしたが、癒されない。 神の国が近づいた証拠として、主イエスは癒しをたくさん見せてくださった。それは愛さんがためであり、「神の愛」が癒しを与えたのである。どこまでも神は私を「神の愛」の証人にしたい。だから、どのように取り扱われて「神の愛」を受け入れたのか、証言せねばならない。「見てください。こんなにも神を裏切り、人に迷惑をかけた、このどうにもならない私が、神の子にふさわしい、愛する者にされたのです」と。もし、神を個人的に知ることができたのならそれを通して、もし、病んでいたのに癒されたのならそれを通して、私たちは「神の愛」の証人とならねばならない。 そして、もし、病が癒されないのなら、病を通して「神の愛」を生涯にわたって見せていこう。病を引き受けつつ、与えられた寿命を全うして「神の愛」を表現することが任務の者もいる。病が癒されるという形で「神の愛」を表現することが任務の者もいる。癒されても癒されなくても、私たちは「神の愛」の表現体として生きることが大切なのだ。 いかなる人生であっても、状況がどうであっても、神が愛であることをどう証しすればよいのかだけを考えよう。人生は自分のものではなく、神のものであり、神の前に長寿も短命もほとんど問題ではない。許された年限をどう生きるか、だけが問題なのである。十字架を背負うか、投げ出すか、そのどちらかなのである。 私たちはキリストと等しい歩き方をすること、つまり、十字架を担うことで、すばらしい神の愛、神の栄光の証人になれる。精一杯生きてすばらしい証を立てられたらそれでよい。どんな状態でも神はご自身のために用いることがおできになり、そして、それが最善なのである。病むもよし、健やかなるもよし、長寿もよし、短命もよし、である。 神の与えてくださるあらゆるものを恵みとして受け取り、感謝して精一杯生きよう。十字架を担うとき、どの道、私たちには苦しい人生が用意されている。しかし、耐え難い苦しみ、乗り越えられない試練はない。神が共にいてくださるので、その神に信頼して前進するとき、必要な慰めと励ましが必ず与えられ、見事に乗り越えさせてくださり、安らぎのうちに着地することができる。また、その苦しみの中で、私たちは神が愛であることを個人的に知る。愛なる神との神秘的な体験をすることもある。ハレルヤ。栄光在主