人生の学舎「惠泉塾」
1.なにをするところですか?
ここは〈人生の港〉です。外洋の荒波に疲れた船が、港に停泊してホッと一息つくように、旅装を解き、安定した大地を踏みしめ、傷ついた船を修理し燃料を補給し、航海の目的と最終ゴールを地図を開いてもう一度確かめ、出航に備えるところです。たった一度のあなたの人生をどう生きたらよいのか、「聖書」を基にして一緒に考えるところです。頭の先で考えるのではなく、異なる個性と共に暮らす「共同生活」や具体的な生活を支える「労働」を通して、地域社会の実際の諸問題の中に身をおきつつ“体で考え”、語り合い、生き方の“改善を図る”ところです。
2.どんなところですか?
JR余市駅から車で10分。港に近い小さな盆地のなだらかな丘陵地帯。丘の中腹まで登れば、遠く広がる雄大な山並みに囲まれた果樹園を中心にした美しい田園のパノラマが楽しめます。川にはサケが遡上する姿が見られ、木々には野鳥のさえずりが聞かれ、リスや野ウサギやキタキツネが身近に現れ、ヒグマさえ時折すぐそばに出没したりします。早朝みんなで聖書を学び、昼間は額に汗して働き、夜はひとり静かに神に祈ります。個人の生活目標を立て、日記をつけて毎日提出します。掃除、洗濯、炊事、健康管理は指導の下に自分たちでします。日曜日の礼拝と教会の大切な行事には必ず参加していただきます。
3.どんな施設がありますか?
惠泉塾が最初に始まった場所が今、「惠泉荘」と呼ばれているところです。それ以降、人々の必要に応じて敷地が広がり、建物が増え続けました。生活の中心となる「惠泉祈りの家」、それに隣接して「プレ惠泉」、「新惠泉庵」、「ヴィタポート事務所」、老人と若者が互いに助け合いながら暮らす「惠泉・館」、それに「パン工場」「木工場」、それらの「管理棟(山荘)」があります。また「レストハウス惠泉」「珈琲とパンの店ヴィタ」「ショップヴィタ」「惠泉ヴィレッジ」「惠泉虹之家」「オリーブの家」もあります。農作業のためには広大な「果樹園」、「野菜畑」、山羊や羊の放牧場となる40町歩の「山」、「鶏舎」、「大倉庫」「冷蔵倉庫」が備えられています。
4.どんな人を迎えるところですか?
義務教育を終えている人、ここで暮らしたいという自分の意志を持っている人、保護者の理解と賛同を得ている人、塾頭の水谷家の家族に馴染める人、持病をもたずに通院加療を必要としない健康で労働可能な人を歓迎します。通院加療を必要とする人は原則として入塾を認めません。年齢制限はありません。入塾の資格試験もありません。入塾には1週間以内の体験入塾と、3月1日に入塾し11月30日に卒塾する9カ月コースの本入塾があります。また惠泉塾の生活についてゆけない人や体力に自信のない人のためには小集団でゆるやかなスケジュールの中で生活訓練し、本入塾を目指す「プレ惠泉塾」が用意されています。
5.入塾が許可されるまでにどんな手続きが必要ですか?
まず塾頭水谷との親子面談が必要です。面談で合格した場合、本人と相談の上で1週間以内の体験入塾の日を設定します。惠泉塾の生活に自信のない方はプレ惠泉塾の入塾からのコースをお勧めします。体験入塾後、本入塾を希望する方は、現在入塾している人々の状態と志願者の個性や状態、部屋の空き具合を考慮して許可を出します。体験入塾の様子を見て、この人には塾生活が無理だ、あるいは家庭生活を続けて問題解決した方が良いと私たちが判断する場合には、入塾をお断りします。しかし、その場合でも引き続き問題解決に参加する事は出来ますので、希望される方は、水谷の巡回伝道旅行先に来られて聖書の学びと集いに参加され相談してください。ご家庭に出向いて現場で直接問題解決に当たる場合もあります。本入塾生の選考と決定は1月中旬です。その後は空室ができ次第随時選考し決定します。なお、入塾についての詳しい案内は惠泉塾事務局まで、お問い合わせください。
6.どんな人が暮らしていますか?
水谷家、塾生、塾生の保護者(奉仕者)、献身者、職業訓練生、信仰訓練生が共に生活しています。
7.いくらかかりますか?
入塾する人は“生徒”ではなく、塾頭の水谷の家庭に迎える家族の一員ですから、入塾費や教育費、生活費などの経費はかかりません。ただし、私たちと一緒に働いていただきますが、それも“家庭教育”の一環ですから、当然、労賃は支払われません。塾生活をして感謝と喜びを味わった分だけ、教会に自由に献金し、神様に“お返し”してください。私たちは聖書の神様に養われて、皆様のお世話をする、という形で神様に仕えているのです。
8.どんな用意が必要ですか?
作業着、長靴、洗面具と着替え、身の回りの必要最低限の物とお小遣いだけを持って来てください。TV、ラジオ、楽器、携帯電話、パソコンや聖書以外の書籍、新聞雑誌、大金も持込をお断りします。化粧品や趣味のものも持ち込み禁止です。《清貧・従順・貞潔》が私たちの守るべき信条です。塾に滞在している期間は世俗を離れ、聖書の原理に基づいて暮らすために、妨げとなるものは極力取り除くつもりです。
活動の特色
1.短期間の問題解決
2.神による問題解決
惠泉塾は神の活躍される舞台です。その主人は「主なる神」、医師は「主イエス・キリスト」、妙薬は「聖霊」なのです。信仰の大切さを認めなかったり、キリスト教にアレルギーを持つ方には、残念ながら利用していただけません。信仰はなくても、最低限、キリストの治療を受け入れる心が必要です。
3.保護者の理解と協力
だから私たちは保護者に、子供と一緒に変わってほしいと願うのです。子供を私たちに託するだけでなく、ご自分をも私たちの指導に託する覚悟をしていただきたいのです。たとえ子供が20歳を超えていても、精神的には年齢相応に成熟していないから、苦悩に打ちひしがれていたのです。もう大人だから、と問題を子供だけの責任に押し込めず、ご自分の問題でもある、と受け止めて積極的に当塾の教育に参加していただきたいと願っています。そのためには最低限一度は入塾前に本人と共に塾に来て、私たちと会い、塾生活を体験し、ご自分の目で確かめていただきたいのです。
人間教育の特色
1.早朝の聖書の学び
聖書は神(主体)が人間(客体)に語りかける書物だから、私たちは聖書を「神の側から」読みます。神の真意を汲み取るのです。神が私たちに何を願い期待し命じておられるのか、理解するのです。多くの信徒は読者の側から聖書を読みます。自分は神に何を期待でき、どんな恵みを約束されているのか、知りたいと思います。福音は人間にとって都合の良い助けでなければ意味がないと思い込んでいます。そして神を人の奴隷にしていることに
自分でも気づきません。そんな「信仰」に神は応え給いません。私たちの祈りに、神がいつもこんなに鮮やかに応え給うのは、神を「天地万物の創造主なる神」として正当に遇しているからだと私たちは思っています。人間教育の土台は神を知ることにあるのです。
2.額に汗して、疲れるまで働く
3.温かい家族の団欒
快い人間関係は愛に基づく関係です。愛は情ではありません。意志です。「相手を人格的に完成に導く」建設的意志です。相手がその人らしく花咲き、実を結ぶように手を差し伸べる奉仕者の意志です。奉仕者は奴隷です。己が身を捨てて相手に尽くす潔い意志の持ち主です。奴隷は主人に勝利をもたらすために命を捨て、主人の勝利の内に自分の命を見いだして満足します。
奴隷は決して自己主張しません。 父母は子供の心身の成長のために命を削ります。子供は親が子供の成長を願って注ぐ愛によって成熟します。愛は忍耐と涙をもって慎み深く伝達されなければ効力を発揮し得ないものです。
家族の団欒は自然な形で愛が流れる「憩いの水際(みぎわ)」です。そこに招かれた者は心ゆくまで乾いた心を愛の水で潤します。惠泉塾の特質を評して「温もり」と言い「この世的でないもの」と言う塾生たちの表現の奥にあったものこそ人の命に必須の家族的団らんだったのです。この団らんには突出した英雄はいません。それがまたいいのです。
神の活躍舞台として
1.神の活躍舞台
心傷つき、病み、疲れ果てて癒されぬ人々が大勢います。みんな決まって誠実で生真面目で、汚れなき魂の人々ばかりです。現代医学の力及ばぬ領域に踏み迷って絶望の壁に向き合っているのです。精神科医でもなくカウンセラーでもない私たちに一体何ができるでしょうか。無力です。まったくの無力です。しかし、私たちが無力のどん底で神に叫ぶと、神は応えてくださいます。「人にはできないことも神にはできる。神には何でもできるからである」と聖書が語っています。これが真実の言葉です。私たちは胸を張ってその証人であると言うことができます。私たちが自分の無力を自覚して神に一切を委ねる時、神は不思議を行い給うのです。神の貧者、霊的貧者になり切る時、私たちの人生が神の活躍舞台になるのです。
2.神が貧者を招くための惠泉塾
神はあらゆる敵意の中垣を取り払い、全人類、全被造物を正しい秩序に納め直し、不滅の「神の命」に生かす、という壮大なご計画を推進しておられます。私たちの惠泉塾はこの壮大なご計画の中のごく小さな部署を受け持つ、裏町のささやかな修理工場のような所です。どんな問題でも持ち込める便利な町工場の存在は、熱心な愛用者の口コミで静かに「神に招かれている人」に知られていっています。
これはラザロのような「神に愛された貧者」を天国に迎え入れるための「神のご事業」です。人間のためではなく、「神のため」の聖なるご事業なのです。人間の自己満足のために自分の夢や理想を実現する手段にすり替えることを許さない「聖なる領域」なのです。
3.福音の実証現場
主なる神は、福音の力を今も実証し続けておられます。牧者である塾頭の水谷が主から賜った使命は時代の罪の沈殿した吹きだまりに身をおいて、そこから神に執り成しの祈りを捧げることです。聖書の神は全能の神です。神との正しい関係に立ち返る者には、溢れる恵みを与えてくださる御方です。神の実在を知らず、身勝手な生き方を推し進めて疲れ切った人をお迎えして、キリスト中心の生活に連れ戻し、悔い改めた特選の民として神の祭壇に捧げ直すのが牧者の聖なる任務なのです。
余市の惠泉塾は、神の恵みに満ちています。生きた福音が語られ、心の奥底からほとばしる祈りが捧げられ笑いに満ち感謝が溢れ、貧しくても不思議な平安が全生活を支配しています。この生活が、都会生活に馴染んだ人々に、久しく忘れていた人間としての大切なことを思い出させてくれるのです。余市で私たちと共に暮らす間に、みんな神の光に照らされて輝き、元気になっていきます。神様はどの人も輝く存在としてお造りになっていたのです。私たちが輝けないのは光から身を遠ざけて、自力で輝こうと努力しているからなのです。この世が教えてくれた常識をかなぐり捨て、永遠に変わらない神の言葉に忠実に従う、純朴で愚かな信徒の生涯を送り続けて、聖書の神が今も生きて働かれる「実在の神」であることを実証する意義を、私たちは新たな来客を迎えるたびに痛感しています。