惠泉塾で教えられること 水谷 幹夫より
1.神と私と家族
私はその相談役です。右手に聖書、左手に経験知を備えて、様々な必要に応じています。その責任者は神です。
私の妻は、この港の最初の利用者であり、その効力の一番確かな生き証人であり、協力者です。そしてまた、彼女と子供たちと私の織り成す家庭生活現場を披露することで、具体的な示唆を提供
する貴重なモデルでもあります。我が家が理想的な家族のモデルだ、というのではありません。現状がどうであろうと、それを神が取り扱っておられる、その神の御手を見せるための一つのモデルなのです。
2.隣人愛の効力
追いはぎに襲われて裸にされ、半殺しの目にあって路傍に放置された哀れな男を目にした2種類の人物が登場します。祭司とレビ人という宗教的特権階級と、サマリア人の旅人という当時差別と軽蔑の対象であった一般庶民とです。前者はこの男を見ても避けて通り、助けようとしませんでした。後者はこの男を見ると憐れに思い、近寄って、我が身が男の血で汚れるのも厭わず傷口にオリーブ油と葡萄酒を注ぎ、包帯をしてあげて、自分の乗る驢馬に乗せ、旅の先を急ぐことを断念して宿屋に連れて行って介抱し、
翌日は宿屋の主人に金を渡して自分の代わりに介抱してあげてくれと頼み、不足分は帰りがけにお支払いしますと言った、というのです。
なぜこんなに違う対応があり得るのでしょうか。なぜ特権階級は心を閉ざし、一般庶民は心を開いたのでしょうか。
祭司やレビ人は律法を学んでおり、弱者を愛すべきことは頭で理解していましたが、実生活では体験がなかったのです。庶民の上に立つばかりで、奴隷のように仕えることはなかったのです。愛は仕えることだと知っていたのは貧しい庶民の方でした。
何もかも不足していた彼らは助け合わずには生きていけなかったのです。弱いもの同士助け合う中で彼らは大切な真理を学んでいたと私は思います。つまり、愛は、受けるよりも与える側に幸いが多い、ということなのです。隣人愛に一歩踏み出す時、上から神の愛が内に押し寄せて来て、その人自身を神の命に満たすのです。塾生活で私もそれを学びました。
3.苦しみの役割
果たして苦しみは厭うべきものなのでしょうか。苦しみなしにはどんな成長もあり得ない、と我々は体験的に知っています。問題なのは苦しみの存在ではなく、苦しみを乗り越える方法が見つからないことなのではないでしょうか。永遠に乗り越えられないと思えるような苦しみが辛いのです。
苦しみを乗り越える方法に2種類あります。一つは刻苦勉励し
て障害を取り除き、努力を積み上げて自分自身を高めることで乗り越える方法です。もう一つはこだわりを捨てることで、それが苦しみでなくなる、という方法です。私自身は前者を教え込まれ、それに習熟してかなりの成果を収めましたが、最後はこれでは駄目だと気づかされました。個人差はあっても結局この方法には限界があるのです。
塾で私が勧めるのは後者です。人が苦しむのはそこにこだわりがあるからです。例えば好きな酒が飲めなければ苦しいでしょう。愛する女性と別れるのは苦しいでしょう。特権を失うのも富を失うのも苦しいに違いありません。みんなそこに執着があるからです。欲しいものは何でも勝ち取るという生き方は間違っていますから、苦しみによって妨げられます。神から与えられるものだけを何でも感謝して受け入れる、それが神の私たちに許された唯一の生き方なのです。
4.理想社会の姿
神は全ての被造物を貫く秩序と調和の世界を企図されました。どんな生き物でも生活空間が保障され、食物を供給されます。
弱肉強食は神の意図しない法則です。むしろ、愛に基づく協力関係が平和をもたらす社会こそ神の望みなのです。神が本来望まれた通りの社会へと私は社会の変革を願っています。