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『 神の国を生きる —キリスト教生活共同体の歴史— 』 出版!

惠泉塾の機関紙「波止場便り」に22回(2013年8月〜2020年9月)にわたって連載された「キリスト教生活共同体の歴史」が本になり、『神の国を生きる』という書名で、この10月にいのちのことば社から発刊されました。

全体を「聖書編」と「実践編」に分けて、まず創世記の天地創造からヨハネの黙示録の新天新地の完成に至る聖書の物語(神の秘められた計画)の中に生活共同体を位置づけ、続けて最初期教会から現代に至る神の歴史において生み出された信仰生活共同体の実践を、その時代背景の中で紹介するという構想をもって始められた連載でした。「聖書編」の4回に関しては多少の蓄積もあり想定通りでしたが、初期教会から、古代、中世、近代、現代に至る「実践編」の17回は予想を超えて膨らみました。私はこういう分野の知識に長けた専門家ではなく、学びながらの連載という恵みに満ちた強制がなければ、この本は生まれませんでした。

そういう訳で、連載中は、(とりわけ実践編において)一回一回を書き上げるのに精一杯で、執筆者自身が全体の流れや眺めがよく見えませんでした。おそらく、忍耐をもって読んで下さった方々も各回完結のように読まれたのではないでしょうか。しかし、この度書籍化されて、全体の流れがつかめる大変に見晴らしの良い眺めになり、著者自身が興味をそそられるような内容になりました。

本にも書きましたが、キリスト教生活共同体の歴史を旅しながら、私には二つの思いと願いがありました。ひとつは、神様はその時代に主流を成す教会が制度化・世俗化して閉塞状態に陥ったとき、時代の荒野に徹底して主に従おうとする預言者とその信仰共同体を興されたことを知っていただきたいということです。そういう主流の教会から見てセクト的な群れは、しばしばその時代の正統派からは異端視されたりカルトと見做されました。しかし、荒野に湧き出た小さな泉を源とする活ける水の流れが、新しい時代の神の歴史を形成するのを私たちは見ます。その流れは、時代の断層を貫く地下水のように、この時代の荒野にも湧き出るのです。

もうひとつ知っていただきたかったことは、主によって預言者的役割を担って時代の荒野に興された生活共同体が、独自の使命と務めを認識すればするほど、自分たちがキリストの体である一つの聖なる公同の教会に属することを深く意識するようになるということです。歴史的に生活共同体には自らを閉ざす独善性と間違った選民意識を持つ誘惑と危険がありました。しかし、キリスト教生活共同体はより大きな有機体的教会の一部ですから、からだ全体に仕えることから生じるへりくだった交わりを必要とします。

本の帯にこの本は「初めの愛を訪ね求める旅」であり、記された歴史の足跡に「個人主義化する現代の教会とキリスト者に投げかけられる問いを聴く」という意義についての適切な編集者の言葉があります。キリスト教生活共同体の歴史は、コロナ禍を経てますます生活を喪い、私事化し世俗化(宗教化)して閉塞する教会とクリスチャンに、活ける神へ立ち帰り、最初期教会の愛し合う生活を取り戻すように呼びかけます。

個人的なことになりますが、自分の歩みの跡を振り返って見ると、保守的・根本主義的な福音派教会に始まった私の信仰の歩みには、3つの目覚めの節目があったように思われます。まずは学生時代の社会的責任への目覚めです。そして、社会的責任への目覚めと牧師としての行き詰まりは霊性を求めました。さらに霊性への目覚めは、ただ知識や認識、理念や観念ではない、また個人主義的ではない共同体——自分が語る言葉の手触りと、共に生きる生活という身体性——を求めました。そして、日本キリスト召団(惠泉塾)に導かれ、福音宣教としての現在の日々があります。そう考えてみると、意図した訳ではありませんが、『終末を生きる神の民』(1990年初版/2007年改訂)、『神の秘められた計画』(2017年、いずれもいのちのことば社)と、今回の『神の国を生きる ——キリスト教生活共同体の歴史―』とで、(恥ずかしい言い方ですが)キリスト者としての私の歩みのささやかな三部作であり、締め括りということになるように思います。そこには内容的な重複がありますが、ひとつの命の歩みにおいてはそうならざるを得ません。そういう意味では、この本は私の心の中を地下水のように流れて来た命を汲み上げていただいたもので、7年もの長期にわたる連載を許して下さった文泉書院と編集責任者の水谷幹夫先生、そしてそれを書籍化して下さったいのちのことば社に心から感謝しないではいられません。

私の知る限り、邦語には類書はありません。良き読者を得て、この時代の神の国の前進のために少しでも用いられると嬉しいです。私自身は、この本の出版を機会に、日本キリスト召団(惠泉塾)に流れる地下水と、そこに湧き出る泉の水に渇きを癒され、この時代における福音宣教に促されている者として、主の教会の兄弟姉妹へのご奉仕と、新たな語らいに足を踏み出したいと願っています。

「波止場便り」掲載時にお読み下さった方、難しく感じて読み進めなかった方も、この本を手に取って下さり、余市豊丘の南斜面に立つように、連載全体の眺めや風光に触れていただけると嬉しいです。

(惠泉四街道教会牧師 後藤敏夫)