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【朝礼】教育について

今日は教育についてお話したいと思います。

畑作業では農業収益を上げるのも大事なことですが、惠泉塾の農業に携わっているそのプロセスは、実は教育なのです。仲間が農業を通して段々育っていく、そのように農業もまた教育の一環として考えていただきたいと思います。パンを焼くにしても、パン工場での教育効果というものがあります。レストハウスでもひかり訪問介護ステーションでも同じです。人間が集まるところではお互いに「教える」、「支える」、「協力する」という営みが行なわれます。これらは皆、「教育」なのです。

ですから、教育の一環として全ての生活があるということを覚えてほしいです。ここで一緒に暮らしている中で自分の教育力、人を育てる力が高まっていくということが非常に大事なことです。

教育について基本的なところをここにまとめてみたいと思います。

教育には大きく二通りあります。集団教育と個別教育です。集団教育の方がよい場合もあるし、個別教育の方がよい場合もあります。

集団教育のよいところは、教え合う、学び合うことができるところです。力の差はあった方がいいのです。日本の学校は違います。生徒たちに力の差があまりなく均一である方が教えやすいと考えています。一斉授業で先生が一方的に教える時にはその方がいいのです。でも集団教育の特性から言えば、いろんな人がいるから教え合える、学び合えるのです。

惠泉塾で 60名近い仲間たちと一緒に朝の聖書の学びする時、「えっ、この人は聖書のこの箇所からそんなこと考えているのか!?」とびっくりすることがあります。この箇所からは大概こういうことを考えるだろう、と思うのに、突拍子もないことを連想している人もいるんです。へーって、驚くと同時に教えられます。「あぁ、自分はそういう発想って持てなかったよな」と考えさせられます。これが集団教育のよい所です。本当にいろんな人がいます。同じテキストから全然違う感想が出て来たりして、それが意外感であると同時に自分の殻を突き破る経験になって楽しいのです。

個別教育は個人の実力向上に役立ちます。その人自身の実力を向上させる時、どこでつまずいているか、どこが分からないのか、あるいはこの人の個性はどこに特徴があるのか、個別教育すると分かるのです。そして「あぁ、この人の場合はこう説明してあげないと分からないんだな、通り一遍の説明ではこの人には通じなかった」などとわかるのです。個別教育では一方的に教えを受けるという形になります。

だから集団教育と個別教育を上手に組み合わせるといいわけです。教師は一斉授業しながら机間巡視して、つまずいている子に「どこがわからないの?」と聞いて、個人的に教えてあげる、個別教育です。そういうことを随時はさんでいくことによって、全体の力が均一化することを図っています。

 

次に授業の流れについてです。

まずは勉強の目的を教えなければなりません。

「何で三角関数なんてするの?こんなもん俺と関係あるのか?」あるいは「どうしてぼくたちは英語を勉強しなければならないの?」「なんで詩なんてことやらなければならないの?」授業前に子どもたちはそんな気持ちを持ちます。ですから勉強の目的についてまず冒頭で説明して、「あぁ、そういうわけで勉強するのか」と学ぶ意味が生徒に分かるようにしてあげるのです。

目的を教えたら次に教科書を説明する。畑であれば野菜の性質を教えたり、本日の農作業の段取りを教えてあげる。「今日はジャガイモを植えますので」とか「トマトをやります」とか言って「今日植えるジャガイモにはこういう特徴があります」と野菜の特徴を説明する。「だからあんまり深く掘らないでもいいです」とか、「この場合は、まっすぐ深く掘って下さい」とか、これから栽培する野菜の特徴を教えてあげて、そのためにはこういう方法がいいんですよ、と説明してあげるのです。または「土質を図ってみましたらペーハー何ぼです。これはこの野菜にピッタリの土質です」という具合です。

そしてその次には現場で実際にやってみる。訓練する。そして一人でもできるようになるまで何回も何回も同じことをやって訓練し、習得させる。

たとえば国語の授業なら高村光太郎のひとつの作品を学んだら次に「この作品を自分で読んでご覧なさい」と言って生徒自身でやらせてみて、みんなが発表して、「ああよく理解できたね、じゃあ次、これはどうですか?」と言っていくつかトレーニングする。これは訓練・習得です。

最後は発展です。「トウモロコシについては分かりましたが、次にインゲンはどうしたらいいでしょうか?」とか別の野菜について興味を持たせる。「今度はこういうのを栽培してみたいな」と思わせる。「ああこりごりだ。作業を切り上げて早く飯にしたい」このように思われたら、もう失敗です。この作業が終わったら「明日は?明日は何するの?」と尋ねたくなるぐらいまで興味を持たせないとダメです。勉強だと「早く終わってよ、先生」というのではなくて「ああ終わっちゃった。先生、明日楽しみだ」と言わせる。そういう風に発展的にもっていく。「光太郎をやめて、今度は室生犀星いくよ」「へえ室生犀星、何だろう?」そう言って、みんなは家に帰ったらすぐに教科書を読んで予習する、これが発展です。

勉強の目的を教え、説明し、訓練し、発展させる、これがひとつの流れです。

 

最後に教育者の条件です。私たちは今、全員教育者です。ここで作業する時、実は全員が先生なんです。

先生の条件ですが、第一に専門知識がないとダメです。大工はたくさんの建物を建てた経験上、専門知識がある。農業者はいろんな作物を栽培した経験上、専門知識がある。パン屋さんもそうです。そんなふうに専門知識がない人は教育できません。

二つ目に教える技術が必要です。英語の読み書きができるから英語を教えられるか?そうではありません。数学の問題が解けるから教えられるか?そういうわけでもありません。日本語を読めるから国語の先生ができるか?全然違います。

「教える技術」というものがあるのです。どこから教え始めれば一番効果的に相手が理解できるか、どういう説明をすればいいのか、あるいはどんな小道具を使ったら分かりやすいか、など色々と教える技術があります。

三つ目にはプラン・立案の工夫が必要です。いつも同じ教え方をすると、生徒は飽き飽きする。もうその先生の授業を受けたくないという気持ちになります。でも絶えず斬新な授業をしていてご覧なさい、「今度は何するんだ、あの先生。今度はどんなことして僕たちを驚かせるんだろう」というのでワクワクする。だから同じように教えていてはダメなのです。

ある時はいきなり問題集から入ったり、ある時は実験したり、ある時は「この作品は演劇にするぞ」って言ったり、ある時は野外に行って森林の中を歩いて「何か発想したか?」「今から詩を書くぞ」「えーっ、詩を書くのかぁ」と驚かせるとか。いろんなことをやってみんなをハッとさせる。ワクワクさせる。そういうプラン・立案の工夫がないと先生ではありません。

いつも同じ、昨日の焼き直しではダメです。「昨日と違うんですか?」「昨日と全然違うんだよ、よく聞いて、今日はこうだから」「へーっ、明日は?」「明日は、また明日教える」「楽しみだな」こうならないといけない。いつも同じ、これではダメです。

四つ目に教育者には生徒を愛する心が必要です。

農作業の労働力として利用する、これではダメです。そうではなくて、農作業をしてその一人ひとりが成長するのが楽しみだ、その一人ひとりがそこで喜びを感じるのが楽しみだ、そうやって生徒を愛する心、生徒を育ててあげたいという気持ちをもって教育することが大切です。どんな仕事もみんな同じです。その人が「働いてよかった」と思えるようにするのです。「いやあ、あなたの下で働けて幸せです」と言わせないと。「え、またあの人~!?あの人、声が小さくて嫌なんだよね」とか「あの人の言うこと分からないんだよね」とか、「あの人は私たちを放ったらかしにしてどこか行っちゃうんだよね」とか陰でひそかに思われている、それでは淋しいですね。

ですからリーダーはみんなから慕われるように生徒を愛することが大切です。

最後に社会全体への影響についての洞察と責任が必要です。この仕事が自分たちの小さなグループのためだけにあると考えていてはダメです。これは結局、社会全体に対してどういう影響を与えていくのか?そういうことを考えながら作業する、勉強する、ということが大切です。一つの仕事はやがて大きく社会全体に発展していく、そのスタートだということをリーダーはいつも思っていなければなりません。

たとえば一つの商品を世に出す時に、その商品を出すことで社会がどうなるのか、という社会全体への影響を洞察し、社会全体に対する責任を感じなければなりません。

うちは無農薬の野菜を育てていますが、自分の食卓に出す野菜は無農薬、市場に出すのは有農薬、これが大体本州の農民の間では当たり前のようです。しかしそれで社会に対する責任を果たせているでしょうか?人の体に害があるようなものをよく売れますね。ですからリーダーは自分の仕事が社会全体にもたらす影響についてよく考えて、また責任を取らなければなりません。

使えばすぐに壊れてしまうような家具、「壊れないと新しいのを買ってもらえませんから」といってわざと壊れやすく作る。そういうのはやめてほしい。靴下もあんまり丈夫にしすぎると新しいものを買ってもらえないからといって穴が開きやすくしてある、そういうのは社会に対する影響力はどうでしょうか?つまり「使い捨て」という文化が生まれますね。

そうではなくて一つの良いものを買ったらそれを10年着る、一つの良いものを買ったら3代にわたって使いこなす、という方がいいんじゃないでしょうか?これはやっぱり社会に対する影響力です。

私たちの今日の仕事は社会全体に一体どういう影響を与えるのか?そういうことを考えて、リーダーはみんなに説明するのです。「価値ある仕事をするんだよ。さあ、みんな頑張ってもらおう」と言って。そうすると「ああ、そうか。そんなに価値あることをするんだ。それじゃあ頑張るぞ」というふうになるわけなんですね。

みなさん一人ひとり誰でもリーダーになる可能性があります。その時に一体どういう心がけで教育する側に回るのか、ということを考えないとなりません。「ただただ作業する」「作業をこなす」というが一番ダメです。時間をすり潰すだけで楽しくありません。暇つぶし、目的のない作業はダメです。この小さな仕事が新しい何かに発展していって、それが全体の益になる、そういう仕事をしている時、やりがいがあるでしょう。

「この人は体が不自由だから、何かできることないだろうか?時間を持て余したら悪いし、じゃあこれをさせておこうか」というような仕事の作り方、それは仕事をする側にとって、とっても辛いことです。「あぁ、私はこの場所にはいなくてもいい存在なんだ」と思わせてしまう。誰でも無意味なことはしたくありません。

ですから今日の作業はいいでしょうか?みんな意味のある作業ですね。そして、そのことを相手に伝達し、お互いに励まし合いながら有意義な時間を過ごしていただきたい、と私は思っています。