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厳冬の余市で燃える若者の集い ~ 余市教会 安間裕璃恵さんのレポートより ~

 

1 心が燃えた年明け 

「あなたは本当に真面目なんですか。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか。」(夏目漱石『こころ』より)

「次は『こころ』にしよう、『こころ』を読まないと、さすがに漱石に申し訳ないよな。」

水谷先生は『坊っちゃん』の授業を終えた昨年末、次の人生を考える若者の集いは『こころ』と決められた。それは、私が今まで数頁読んでは何度も挫折した作品だった。面白いんだろうか、何で水谷先生は一番好きな作品なんだろうか。教育係としてまず率先して読まねばならないのに頁をめくる指は重く、分刻みの惠泉塾生活では進まず、気がつけば年は明けていた。授業3週間前の晩、腹を決めて向き合った。最初は話の流れを遅く感じ、忍耐がいった。しかし冒頭の文章に目に留まったとき、突如、私の心はぎゅっと熱くなった。漱石の言葉が手のように目の前に飛び出してきて、心臓の柔らかい部分を鷲掴みにしたようだった。“あ、私も同じことを思ったことがある。”

「私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。然し恐れては不可ません。暗いものを凝と見詰めて、その中から貴方の参考になるものを御攫みなさい。(中略)あなたは私の過去を絵巻物のようにあなたの前に展開してくれと逼った。私はその時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。(中略)私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です。」(夏目漱石『こころ』より)

「先生」の迫りに胸が押しつぶされた。「先生、私は真面目です。どうか、その血を浴びさせてください」と正座に座り直して読み進めた。涙が出て、心はカッカと燃えて、その晩は眠れなかった。この文学はすごい。言葉が生きている。言葉が話しかけてくる。

この作品を書いた漱石。この作品が好きな水谷先生。この2人は何だろう。次の日、漱石書簡集を読んだ。漱石は戦う文筆家と呼ばれたそうだ。実際、血を吐き続けながら書き続けた晩年。少しだけわかった。両方に共通するのは、血が流されていることだ。血を流して戦った人の語る言葉は生きている。コリント人への手紙から伝わるパウロの熱気にも似ている。

『こころ』の先生が浴びせようとしている血は過去の悲劇の血であるが、私たちが惠泉塾で受けた血は、水谷家の自己犠牲の血である。そして今もなお、満身創痍で肉体を使い尽くして命を与えようとしている先生がいる。私たちが受け継ぐべきは、神様の恵みである以上にこの自己犠牲の血ではないか。これは今、私たちが読むべき文学作品であると強く思った。思わず、朝礼で「みなさん、『こころ』読んでますか、熱いですよ、今からでも参加できますよ」と呼びかけた。

1月21日、待ちに待った水谷先生による『こころ』の授業が行われた。総勢28名の大盛況であった。1ヵ月前から、小さな惠泉塾の食卓で、土曜の午後には新惠泉庵の囲炉裏端で、若者は集まって語り合い、松下村塾のように『こころ』にまつわる人生談議が繰り広げられた。志賀直哉の『城の崎にて』、漱石の『坊っちゃん』を経て、文学と時代背景を結びつけて読む大切さを学んだ私たちは、事前に、“近代化”“エゴイズム”“人間の二面性”“明治の精神”とは何ぞや?と事前学習をし、『ジキルとハイド』や『乃木大将』を副読本として読み、先生は一体どんなふうに解説するのだろう?と万全を期して待ち望んだ。そして迎えた今回の授業は、またもや予想を見事に裏切られた回となった。

 

2 『こころ』を恋愛の切り口から読む?

「高校教師時代に教えていたときとは全く違う観点から読めました。私はアーサー王物語、騎士道精神を思い出しました。」開口一番、水谷先生はそう言って授業を始められた。

先生はいったい、なぜ死んだのか? 騎士は貴婦人に恋をするとき、その貴婦人のためなら死んでもいいっていう、「ほとんど信仰に近い愛」を捧げるんですね。先生も下宿先のお嬢さんに、性欲ではない、「神聖な感じ」を抱いていた。しかし、親友Kを出し抜いて結婚を申し込んだあと、Kは自殺し、妻にさえ心を打ち明けられず、先生は自分自身をも信用できなくなった。友情は壊れ、愛は壊れ、自分自身を失った先生。先生の騎士道(ナイト)の精神は壊れた。乃木大将は戦時中将軍として失態を35年抱えて生き、天皇崩御の際にその責任を負って殉死した。そのように、先生の死も「騎士道の精神に対する殉死」ということが言えるのではないか、そういうふうに私は読んだ。

だから若者が現れたとき、「真面目なあなた」には「美しい恋愛の裏に恐ろしい悲劇」のあることを体験的に語りたい。恋は罪悪ですよ、そうして神聖なものですよ。恋はしてみなさい、しかし危ないですよ。フグ刺しはうまい、しかし危ないですよ。そう言いたかったのではないでしょうか。

エゴイズムでもなく、明治の精神でもなく、恋愛で『こころ』を読むの?と驚いた。しかし、Kの罪を償いたいが、妻には汚い過去は打ち明けたくない、純白なままにしておきたい、と独り自殺した先生の精神は、エゴイスティックな騎士道だなあと率直に思った。果たして、それで罪は償えるんだろうか。死ぬことは解決ではない気がした。

他の参加者からは、「私は先生の気持ちが理解できなかったけど、だからこそ文学を読む大切さ、共感性を育む大事さを思った」、「神なき世界での人間の限界だと思った。明治時代に日本は西洋文化を、宗教を抜きに輸入したが、そのことが『こころ』にも表れており、神様は見えず、自分を責める悪魔の声は聞こえるという、非常に苦しい世界に日本はなったと感じた」、「先生の『あなたはたった1人になれますか』との言葉に共感した。自分も信用できる人を探してきたけれど、今度はその信頼に応えられる、裏切らない人間になりたい」など、自分の心と向き合うきっかけになったという声が多かった。

そして今朝、1月31日の朝の学びは詩篇5篇。「ダビデは姦淫と殺人を犯したけど、その後、失態を認め、罪の報いを引き受けて、神のために生き抜きましたね」と水谷先生。それを聞いて、再び『こころ』の先生を思い出した。そうだよな、神のためなら失敗を犯しても、その後の人生を生き抜くべきだよな。殉死するべきではないよな。

最近、何を考えても『こころ』に結びつく。しばらくは、私の心からこの火は去りそうもない。