この世で一番惨めなのは人並みの扱いを受けられない人、憐れまれながらその裏でやっかい者に見られている人、物欲し気な怠け者のように思われる人。かわいげのない幼児、治らない病人、働けない障害者、無気力な若者、寝たきりの老人、無知無教養の野蛮な人種と思われる人、犯罪常習者、蕩児。役立たずの非生産的存在はみな軽蔑の的なのだ。彼等にせびられるのは嫌だ。自分はあんな惨めな奴等とかかわりあいになりたくない。同列に見られたら腹が立つ。人の憐みを乞うなんて、まっぴらだ。だから、誇りを保つために自己防衛の垣をめぐらす。経済力、権力、教養、信頼できる息子、役に立つ友、仲間たち…。病原菌は抵抗力の弱い者に一番猛威をふるうように、罪深い人心の憎悪は弱い立場の者に向かって口を開く。我々は自分がその弱い立場に転落しないように、又、溢れ出す人心の毒害の被害をこうむらないように、あらゆる手を打つ。役に立たない、と思われる日が来ることは恐ろしいことなのだ。
しかし、彼等を弱い立場に追い込み、惨めな存在にしているのは我々の心なのではないか。彼等を“役立たず”としか見られない我々の理解力の狭さ、真実が見えていないこと、それこそが問題なのではないか。視力を失った、という事実は我々がその人をどう見ようと変わりはしないが、我々が彼を、「やっかい者扱いにされる憐れむべき者」と見ることによって、彼は自分を「惨めな存在」と認識せずにおれなくされるのだ。機能障害の不自由さ、という客観的事実の上に、更に負(マイナス)の価値づけを心の重荷として負わされる身の辛さを我々は無視しがちだが、それこそ人を苦しめる最大の要因だろう。