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惠泉塾前史~人助けは信仰から

(ヨハネによる福音書12:1~8)

 

1.   イエスを愛する心はひとつ

通常は20万のエルサレムの人口が、過越祭には全国からの巡礼客が集まって10倍にも膨れ上がり、どの家も旅人で溢れかえっています。イエスは郊外のベタニヤに宿を取り、ラザロの家で夕食のもてなしを受けました。

姉のマルタは台所から出て来ません。飛び切り美味しい料理を作ってイエス様を喜ばせようと、腕に縒りを掛けています。復活を体験したラザロは弟子達と共に食卓を囲み、主の話に熱心に耳を傾けています。イエスの本質はロゴス(言)ですから、真理の言を心の内奥でしっかり受け止めると、言から命が吹き上げ、大歓喜が突き上げて来ます。眼を輝かせて聞き入るラザロを見て、イエスは慰められ、深くお喜びになりました。妹のマリヤは談話を妨げぬようにイエスにそっと近寄り、一年分の労賃にも値する高価なナルドの香油を一瓶全部イエスの足に注ぎ尽くして、高貴な家柄の婦人の誇りに満ちた髪を遊女のようにしどけなくほどいて、それでイエスの旅に汚れた足を拭き清めました。突然、鼻孔を衝く香気が家一杯に満ちて、聴衆の目は宙を漂い、やがて床にうずくまるマリヤを見いだします。脇には空になったナルドの大瓶がひとつ。

 

2.   調和を乱す者

イエスの財布を預かっていたユダが沈黙を破りました。

「この香油なら安く見積もっても300デナリにはなるだろう。金に換えて私に預けてくれたら、どんなに多くの貧乏人の口を養えたろう。無駄に使って惜しいことをした。」

マリヤは顔を赤らめ身を固くしました。心は、主をお喜ばせしたいと、それのみ考え、飢え乾く仲間の必要を満たすべきことに思い及ばなかった自分が恥ずかしかったのです。信仰か、社会福祉か。イエスには引き裂かれるマリヤの辛さが痛いほど伝わって来ます。

 

3.   神に仕えてこそ人に仕え得る道理

イエスはマリヤの側に立って、ユダを退けました。信仰から発しない社会福祉は結局欲の張り合いに終始するのです。問題に携わる人間が利己心から解放されていない以上、本当の人助けになり得ないことをイエスはよくご存じでした。ユダもイエスのやり方が自分の思いと食い違う時はくすねておいた軍資金で別の道を選ぶ魂胆でした。信仰なきユダは神に捨てられ、信心深きマリヤは主の葬りの準備の尊い任務に用いられました。人を愛し、助け得るのは神のみ。人助けせんと欲せば平伏して神の驢馬となるべきです。