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惠泉塾前史~深みへ乗り出せ

弱きを覚える友を群れに迎え入れているのは何と幸いなことだろう。神は弱く小さな者を殊更に愛しておられるから、その友に尽くすことは主に仕えることになる。貧しい友がいたら物質的に援助しよう。心の悩みに苦しむ友がいたら自分の時間を割いて良き聞き手になろう。肉体的に障害を負う友がいたら、友の目とも杖ともなろう。キリストが私共罪人(神に背を向けて自己中心に生きていた者)の救い(再び神との正しい関係を結び合わせる)の為に十字架上に御自身を犠牲として献じて下さったように、私共も友の救いの為に、「友の弱さ」という十字架の下に自己犠牲を払うよう招かれている。その招きに応じることがキリストの御足跡を踏み従うことなのである。キリストは私共だけに重荷を担わせ給わない。共に軛(くびき)を負って下さるから、友の弱さを担わせてもらうと主の軛の負い方がわかってくる。主は弱き友の重荷を共に負いつつ、父なる神のもとへと共を連れて行く。友の弱さは神から離れていることによって生じたものだから。友は父なる神と正しい関係に入ることによってのみ、本質的に弱さから解放される。友を援助することによって、友の目を私共に向かせ、友の心を私共人間に結び合わせ、私共が友の支えだと誤認させてはならない。私共人間に友を救う何程の力があるだろうか?!友に仕えることを通してキリストを指し示せ。キリストは父なる神を指し示しておられる。私共は共をキリストのもとに連れ来たり「信仰の深みへと乗り出だせよ、そこに君の救いがある。」と言い得るのみ。主に連れ来たらぬような奉仕を私はしない。