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惠泉塾前史~神の事業のために

信仰の群れが組織として何か事業をするとき、気をつけねばならないことがある。「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や家柄の良い者が多かったわけでもありません。ところが神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは誰ひとり神の前で誇ることがないようにするためです。」(コリント前書第1章26~29節)と聖書は教えている。私達の群れも殆ど力無き者の集まりである。そして力無き者の方がより一層神に信頼する角度が鋭いだけに、信仰的に優れている場合が多いのだ。力ある者は自分の力で事業を推進しようとするが、力無き者は「私達にとって神の知恵となり、義と聖と贖いとになって下さるキリスト」の力で推進する外に手立てが無い。それがかえって神の喜ばれる所となる。

ところが、事業を始めるとなると、力無き者は人目には実にぶざまな惨状を呈し、スマートに手際良く仕事を処理する者の前に卑屈にならざるを得ない。自然の成り行きとして、力ある者の発言権が増し、彼らが全体をリードして行くことになる。かくして信仰で始めたはずの「神の事業」が、いつのまにか「人の事業」になるのだ。

私達は「力ある者」の意見に耳を傾ける以上に「祈りの人」の意見に耳を傾けよう。「聖書知識の豊かな人」の意見を尊重する以上に「神にすがりついて生きている人」の意見を尊重したい。その人が、たとい寝たきりの老人であったとしても、その人の祈りが群れを清め、神の事業を支えるにちがいない。

「祈りの家」が神の事業であり続けるために必要なのは、力ある者の働き以上に、力無きあなたの「命懸けの祈り」だ。土壇場で信仰を貫くあなたの「生きざま」だ。それによって力ある者は絶え間無く砕かれ、謙遜に退いて、キリストにあって分相応の働きをするだろう。力無き者が遠慮して退く時、力ある者は全面に出ざるを得ない。その時、誰が彼を非難する資格をもつか。私達の事業は必ずしもスマートに推進されるに及ばない。遅々たる歩みであっても、神の事業であり続けたい。そのために、この世的な力の有無に関係なく、この群れに連なる全ての兄弟姉妹の積極的な参加が期待されている。ただ自戒すべきは神を信ずる点に於いて力無き者とならぬことだ。