余市惠泉塾 保坂晋平
「『坊ちゃん』は文明批評である。」
11月19日(土)の午後、余市惠泉塾「惠泉祈りの家」礼拝堂で、水谷幹夫先生による「人生を考える若者の集い」が開かれた。題材は夏目漱石著『坊ちゃん』。その講義の中での先生の言葉である。
『坊ちゃん』と聞くと日本人なら誰でも知っている文豪・夏目漱石の代表作であり、「ユーモアに溢れたべらんめい調の痛快小説」という固定観念があった。ところが、である。これはただ単にストーリーを追って読んで、「面白かった」では終わらない書物であるということが、水谷先生によって流れるように語られていった。
「漱石はイギリスに行って英文学を勉強した。そして日本を見ると、日本は非常に薄っぺらいの。ヨーロッパの文化を表面的になぞっているだけ。本当には分からない。本当に分かるためにはキリスト教が分からないといけないでしょう。だけど日本は、キリスト教は受け入れないんですよ。キリスト教を受け入れないで、機関車・電信電話・造船技術とか、そういういうものばっかり勉強しようと思った。だけどそういう『文明』が生まれてくる素地に『文化』があるの。それが『宗教』なんですよ。森鴎外はドイツに行った。そして分かった。日本は薄っぺらい。ヨーロッパの『文明』の表面を捉えて『文化』は切り捨てる。…夏目漱石は仏教や儒教に戻った。森鴎外も中国文化に戻った。だから明治の文化人は古典に帰った、と言える。」
『坊ちゃん』の主人公は本名不明の正に坊ちゃんである。江戸っ子である。その彼が教師になって四国に行くと、教頭「赤シャツ」に出会う。赤シャツは帝国文学なんかを小脇に抱えて「あの松を見たまえ、幹がまっすぐで、上が傘のように開いてターナーの絵にありそうだ」とか「ゴルキ(魚)というとロシアの文学者(ゴーリキー)みたような名だ」とか、やたら横文字を連発する。この薄っぺらい西洋かぶれの象徴のような男に、坊ちゃんは「一体この赤シャツはわるい癖だ。誰を捕まえても片仮名の唐人の名を並べたがる。人にはそれぞれ専門があったものだ。おれの様な数学の教師にゴルキだか車力だか見当がつくものか」と容赦がない。さらっと読むと、坊ちゃんが単なる言葉遊びをしているようにも聞こえる。だが先生の講義を受け、解説を聞いて改めて読み直すと、漱石による、西洋文明の表面だけを取り入れた俗人に対する、批判の言葉のようにも聞こえてくるから不思議だ。
「世界中が漱石の文学から刺激を受けて、世の中を見つめ直した。彼は小説を書くことで、大きなことをした」と、講義終盤に先生は説明された。
私たちは今、惠泉塾にいて聖書を学び、世界を見つめ直し、信仰を生活に落とすことを訓練する日々を送っている。文学は書かないが、己の人生という白紙の原稿用紙に、文字ではなく霊で書くこと、神の愛を表現することを神様から期待されている。文学に、人生に、時代に、漱石はどのような気迫で向き合ったか。まだまだ学ぶ余地が残されている。
「人生を考える若者の集い」は、これから、漱石の晩年の大作「こころ」を皆で読むことが宿題として残っている。